柏原宿ウオーキングⅡ


「亀屋左京商店」文化12年(1815年)に建てられ、現在も住んでおられ商売も行われているため見学はできませんでした。柏原宿の名物はなんと言っても「もぐさ」で多いときは10軒からあり、すべて亀屋という屋号をつかっていたそうで今も営業されているのは、上記の亀屋左京商店一軒のみとなりました。広重が描いた「木曾街道六十九次」にでてくる柏原宿はこのお店がモデルとなっています。
  
霊通山清瀧寺徳源院
本堂に入り住職さんからここのお寺の概要を説明していただきました。ここのお寺は京極氏の菩提寺で終戦時の農地解放まで寺領が分け与えられていてよかったのですが、一時期雑草がぼうぼうでした。他のお寺さんと違ってお墓は歴代の京極当主の墓だけで、坊主の墓(話された通りの記述しました)も一般の方のお墓もありません。檀家が一軒もありませんから葬式もやりません、することは一年に一度京極家の供養だけでそれ以外は掃除ばかりやっています。ちょっと驚きの話から始まり佐々木氏から始まって大原氏、朽木氏、六角氏、京極氏と、即席の歴史講話となりました。

【余談ではありますが昨日徳源院のHPを見ました。坊主なんて言っておられましたが山口住職は最近まで彦根東高等学校の生物の先生だったようです】




ご住職の話によると小堀遠州の作と言い伝えられていますが、記録が残っていないのではっきりとは申しあげられないが、私は遠州作だと思っていますとのことでした。一見枯山水に見えますが昔は前の窪みには水がはっていましたが、伊勢湾台風のおり上の水源が絶たれてしまい枯れてしまいました。私が子供の頃はこの池でいかだを浮かべて遊んでいたのですがね、この池に元通り水を入れるのが私の願いでもありますとのことでした。裏山を借景したすばらしい庭で秋にでも拝観したいお庭でした。



(写真は大津城主京極高次の石廟)

寛文12年(1672)高豊(代22代)が散在していた歴代の宝篋印塔をここに集めたもので。墓所は境内の裏山裾に上下2段に分かれて上段に18墓下段に14墓が並べられていました。これら墓所全部が国指定史跡となっています、京極高次の墓は下段にあって墓が石廟の中に入れてあり驚きでした。これら32墓は鎌倉時代から江戸時代まで各時代の特色がでており、石塔研究にとっては貴重な資料を提供しています。

三重の塔(県指定文化財)
常楽寺の国宝三重の塔と比べると素人目にも貧弱とは思いますが、威風堂々とした様式は引けをとるものではありません。少し痛んできているのでは思います、もしそうであるとするなら早い時期に修復保存を願いたいですが、檀家寺ではありませんからね。

事前に調べて予備知識をもって行くべきでした。徳源院さんのHPを紹介しておきます詳しく説明されています。
  
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2008年07月14日 Posted by 吉祥 at 21:16Comments(6)TrackBack(0)近江歴史回廊

監督吉村公三郎



  
先日の柏原ウォークの続編です。
昼は下の写真柏原宿歴史館で休息と弁当となりました。休憩時間を利用して自由に館内をみてくださいと言うことでしたので、ゆっくりと柏原宿を知ることができました。

私がまず目についたのが昔の映画ポスター3枚、歴史と言えるかどうかですが10年前は立派な歴史だとすると紛れもない歴史物です。ポスターを見てウーン懐かしい、昭和30年代は最も映画が流行った時期ではないでしょうか。30年後半にもなると各家庭にTVが普及して一気に廃れてしまいましたが、なつかしいです。
どちらかというと日活映画の方が記憶にあって、この3枚のポスターの映画を見たという記憶はありません。夜明け前、島崎藤村の代表作です。映画になっていたとは知りませんでした。ところでなぜここの歴史館にこのポスターが貼っているかというと、映画監督が吉村公三郎さん。ここ柏原の出身だそうで若い頃に東京に出て、映画作りに関わられたそうです。

  
柏原宿歴史館です上記のポスターはここにありました。街道を歩くと各家の玄関口にはこのような看板が垂れ下っていました。造り酒屋、醤油や、本陣、脇本陣、街道筋はよく整備されており、地域全体で柏原宿を守っていこうという取り組みが感ぜられました。ただ当時22軒あったという旅籠が現在では一軒もなく、また宿場としての名残りもないのが残念でした。このあと私の今回の目的地である徳源院へ行きました。整理して明日にでも記事にしたいと思っています。
  

2008年07月14日 Posted by 吉祥 at 10:04Comments(2)TrackBack(0)近江歴史回廊

柏原宿ウオーキングⅠ

   
昨日は朝から近江歴史回廊大学柏原宿周辺ウオーキングと言うことで、柏原まで行って来ました。駐車場がありませんから公共交通機関で来てくださいと、事前に説明を受けていたこともありますがガソリンも上がっていることだしJRで行きました。ところでこの柏原駅なんど聞いてもまちがいます。
かしわばら、かいばら、どちらでしたかねそれもその筈JRには柏原駅が3駅あります。ここ東海道本線の柏原駅(かしわばら)、関西本線の柏原駅(かしわら)、福知山線の柏原駅(かいばら)ウーンややこしいです。米原駅をすぎると中部圏になるとは聞いていましたが、駅を降りるとなんとなく駅の空気が違うように感ぜられました。

柏原駅を降りて最初に行ったのが寝物語の里、片道約2キロ暑い中歩きました。寝物語の里とは近江と美濃の国境の小さな溝を隔てて並ぶ二つの旅籠に泊まった旅人が、壁越しに寝ながら話しをしたと言う伝説からつけられました。現地で地元長久寺の方の説明を受けました。この溝を境に行政が違うのは当然として、滋賀県側は家の柱がベンガラ塗りで赤いですが、岐阜側は白木造りです。雑煮の餅はこちらは丸餅で白味噌向こう側は角餅で赤味噌、の説明には思わず皆さんへーの声がでました。


東山道と書いた道標をみました。東山道は中山道の旧道で今では不明なり人が通らなくなって消えてしまった道があるようです。この道標は最近建てられたもののようです。

     
成菩提院、伝教大師最澄が建立したとされており信長、秀吉も泊まった記録があるらしい。秀忠からは160石からの寺領を受け末寺80ヶ寺を数え美濃の谷汲山もそのうちの一つだそうです。
長くなりそうなので続きは後日にも記事にします。
  
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2008年07月13日 Posted by 吉祥 at 08:00Comments(4)TrackBack(0)近江歴史回廊

花札と小野道風神社

    
昔はこれでよく遊びました。正月ともなると定番でまたこれが楽しかったです。特に右端の花札は点数がよかったと筈、今の子供はトランプとか双六では遊ばないようです。それに変わってこの任天堂も今はNINTENDO花札からゲーム機で大成長。早く気づいて株買っとけばよかった。


ところで雨の20文で道風さん、先生がよく言っていた。道風さんが雨の日傘差して柳の木の下を通ると、蛙が柳の葉に飛び移ろうとジャンプ一番しかし上手く乗ることができなくて失敗。再度チャレンジまたまた失敗、これを繰り返しているうちにとうとう柳の葉にくらい付きました。これをみた道風さん一度や二度の失敗で諦めてはいかん、蛙でも何度も挑戦して成功したのだから自分も切磋琢磨してやり遂げないといけないと発奮。後々に書の大家となりました。道風さんでも最初から字が上手ではなかった、練習して練習して上手くならはったんや、お前らも努力や努力せんとあかん。
半世紀前に聞いた話でした。今からではもう遅いやろうな。


先日小野神社に行った折あった小野家の家系図です。小野妹子、小野毛人、小野篁、小野道風すごい面々ですね。
小野道風は小野篁の孫にあたるようです。


当日雨降りで濡れた石段をあがるのもおつなものでした。
ここ小野道風神社は文字通り小野道風を祀っていて祭神は(小野匠守道風命)。

小野道風は平安中期の方で前述の通り小野篁の孫、藤原佐理、藤原行成とともに日本三大文筆、三蹟の一人。因みに三筆は嵯峨天皇、弘法大師、橘逸勢。

小野道風は菓子の体型を想像されたことにより匠守の称号を受け賜われました。菓子業の功績者に、匠、司の称号を直接授与するのが許されていました。現在においても老舗の屋号に匠、司が使用されるのはその名残りであります。

道風神社は小野神社より南方面に歩いて約10分、閑静な地にあり境内は静寂そのもの駐車場もありいいところですよ。


      
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2008年07月01日 Posted by 吉祥 at 11:39Comments(16)TrackBack(0)近江歴史回廊

県下最大のムクロジ

 
昨日のことですが湖西に行く用事があって14時頃琵琶湖大橋を通りました。ところが橋の上では前が見えないどしゃぶり降り、雨がアスファルトに跳ね返って道路が白くみえました。ワイパーは高速運転こんなことは久しぶりでした。ところで一昨日MyライフMyくさつ講座でムクロジの木について少し書きましたが続編です。

当日の講話のなかで、葉には対生と互生があってムクロジは対生でと言う話がきっかけでした。そのこと自体はなんとも思わなくて聞き流していたのですが、この種が羽子板の玉に昔なりましたには頭が自然とあがりました。玉が羽子板に?草津西矢倉3丁目の正光寺にありますからまた見てください。正光寺にある?ムクロジ?そういえば聞いたことある名前、どこかのお寺さんか神社で確かに見た、しかし講義中は思い出せなくていらいらがつのるばかりでした。

ところが終わって家に着くなりよみがえってきて、そうや小野神社や。早速ネットで検索してみると何人かの方がブログに書かれています。私はつい最近ここへ行ったばかり、子供の頃からこの大木は何度も見ていました。子供の頃はひとづてにこの木は結構大木で有名らしいとは聞いていたが、この木よりもっと大きい木はいくらでもあるものでから何故有名なのか今まで知らずじまい。

ようやく解かりましたムクロジの巨木として県下最大と言う事だったんですね。改めて昨日雨の中見てきました。説明書きもちゃんとありました。よく見ないとだめですね、ところでムクロジは前述の通り黒い種が羽子板の球とか数珠にも利用されたようです。面白いのは種をこすると泡がでてきて石鹸の代用にもなるらしいです。

秋になると種ができるらしいです一度種を見たくなりました。もう一度秋にでも来ることになりそうです。場所は小野神社の参道横の上品寺(じょうぼんじ)という、天台真盛宗のお寺さんの塀近くに植わっていてすぐ分かりますよ。



ムクロジはこちらを参照してください

    
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2008年06月30日 Posted by 吉祥 at 11:15Comments(6)TrackBack(0)近江歴史回廊

近江歴史回廊大学で八日市へ


土曜日ですが八日市へ行ってきました。
近江八幡までは行きますが八日市まではめったなことでは行かないので、この近江歴史回廊大学の会場となったアピアホールにし初めて入りました。要するに平和堂なんですね知りませんでした。昨日薬師寺のことを記事にしましたが一時限は近江日野商人館、満田良順館長による八風街道と御代参街道でありました。八風街道の八風とは鈴鹿にある峠の名前からきたもので、現在の国道421号線で今も一部狭いところがあるが車が通れる道が鈴鹿の山を通り抜けています。

中世には南の鈴鹿峠から北の五僧峠(彦根市高宮)までの80kmに間には、19本からなる山越えの道がありました。土山越え、日野越え、八日市越え、高宮越えそれにこれらの中間に位置する峠もありました。これは保内商人、小幡商人をはじめとする近江商人が近江の特産物を伊勢へ伊勢の海産物を近江へ運ぶのに利用されていました。このことは八日市市にある今堀日吉神社に多数の古文書として残されており貴重な資料となっています。この古文書は現在滋賀大学に預託されているようです。

江戸時代に入り幕府により楽市楽座令が制定されると共に、これらの古道は衰退していき現在ではその道の存在すら不明の道があるようですが、最近これらの古道を復活させようという動きがあるようですとの説明がありました。

一方御代参街道は土山宿と愛知川宿を結ぶ脇往還であります。これは江戸中期の頃朝廷、仙洞御所、皇族が派遣した伊勢神宮と多賀大社への代参の名代が通ったことから付けられたなまえですが、これは明治に入ってからつけられたものだそうです。この道と平行して明治33年に近江鉄道が日野~八日市間が開通するとともに衰退していきました。

   
このあと近くの市内を歩きました。
最初に市神神社に行きました、ここの神社では事代主命(コトシロヌシノミコト、又の名はえびす大神)のご神像をお祀りしています。社務所のなかには崇敬者の各家庭に祀ってあった500体からの恵比寿像が奉納されており圧巻でした。
  
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2008年06月16日 Posted by 吉祥 at 10:03Comments(2)TrackBack(0)近江歴史回廊

小野篁神社


小野神社と同じ境内にある小野篁神社、勿論祭神は「小野篁命」漢学者で歌人。

百人一首にある
「わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人には告げよ 蛋の釣船」の作者である。

834年遣唐副使を命じられ836年に出発したが、暴風雨により目的を達せず遣唐使を断念するも、838年に再度遣唐副使命ぜられたが、大使の藤原常嗣と折合いが悪く渡唐をとりやめた。しかもこのときに遣唐使を非難した為、嵯峨上皇によって隠岐の島へちっ居された。3年後にゆるされて帰京以後は精進をかさねて参議、従三位となった。小野篁は小野妹子の末裔でもあり、初代遣隋使の妹子の影でもちらついたのであろうか。小野妹子が唐に渡った時は607年でそれから230年も隔てた平安時代のことで小野一族の隆盛がここでも見える。


  


小野篁神社は桁行き三間の流れ造りで国の重要文化財に指定されている。ここから道風神社までは少し離れていて小野神社の飛び地にある。道風神社についてはまたの機会に行きたいと思っている。



  
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2008年06月09日 Posted by 吉祥 at 21:43Comments(2)TrackBack(0)近江歴史回廊

菓子・餅の祖神小野神社


先日湖西に行った折小野神社に寄ってきました。ここを初めて訪れたのは随分昔の話でまだ保育園か小学1.2年生の頃だったと思う、何の記憶にも残っていないのだが遠足でも行ったのであろう。それと小学生の5,6年生ともなるとここのお祭りにも行っていた。親から小使いもらって露天で買い物するのが嬉しかった。


この階段あがった本殿は小野神社ではなく小野篁神社です。階段あがった左側が一枚目の写真の小野神社です。祭神は第五代天皇孝昭天皇の第一皇子天足彦国人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と同命から数えて七世の米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)の二神を祀っています。特に米餅搗大使主命はわが国で初めて菓子、餅を作られたといい。今もって全国の菓子業界からの篤い信仰があります。


   


狛犬ではなく餅を形どったもので餅の神様所以であることがわかります。狛犬は階段下にありました。小野篁神社と小野神社は古墳上に建っていると言われ。小野妹子を始めとした小野一族の出身地ぜひとも一度行かれてみてはいかがですか。
  
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2008年06月09日 Posted by 吉祥 at 09:24Comments(2)TrackBack(0)近江歴史回廊

田中聡子選手知っていますか。


湖岸道路の草津市山田地先にこの建物が見えるのご存知ですか。画像は東側から大津方面を望んで写したものですから、湖岸道路から見るのとでは少し違うかも知れません。この建物は広島に本部がある宗教施設と聞いています。歴史大学で京都橘大学の織田教授が10年たてぱ歴史になります。と言う話を思い出しました。以下この話は多分滋賀咲くブロガーの方は初めて聞く話ではないでしょうか。昭和40年前後の話ですから完全に歴史です。

この建物のある地は昭和30年後半に温水プールと遊戯施設が営業されました。ボーリングしたら温水がでて来て温泉まではいかなかったのだと思います。当時昭和39年に開催予定の東京オリンピックの水泳の強化合宿がここで行われました。メダルにもっとも近かったのが八幡製鉄所属の田中聡子選手と男子の福島○○選手(福島選手の下の名前は忘れました)でした。両選手を含めオリンピックの最後の調整をここで行いました。両選手とも背泳ぎの選手でオリンピックの結果は、メダルには届かずそれぞれ4位だったと記憶しています。

その後この温水プールは交通の便が不便だったこともあり営業廃止となりました。私が草津市民となったとき自転車でこの地を訪れたときは既に廃墟で、つる草と雑草で一面おおわれていました。それでも以前の遊戯施設なんかもそのまま残っていました。昔温泉地によくあった射的なんかもそのまま残っていました。


この写真は身体を180度反転して草津・栗東方面側です。高校生の時、大津の某高校の屋上から小さく見える温水プールの屋根をみて上記の話をしていました。そして仲間と泳ぎに行くことになっていましたが結局は行かなかったようです。高校生の時はまだこの画像の入り江を定期船が運航していて、温水プールには船に乗ってくるようでした。温水プールの話もそうですがこの入り江に琵琶湖汽船の大きな船が入ってきて、浜大津まで定期船が運航されていました。山田港はこの画像の奥側で、朝夕になれば大津までの通勤通学客で賑わっていたとは驚きです。港のことはカテゴリー太湖汽船で書いたと思います。

瀬田のホームセンターまで単車で買い物に出かけたおり、ここを通ったものですからふと思い出したものですからブログネタに使いました。しかし100年も200年も前のことではなく、たかだか40年すこし前の話で隔世の感がしました。
  
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2008年06月02日 Posted by 吉祥 at 10:46Comments(6)TrackBack(0)近江歴史回廊

御上神社の蟇股





御上神社の本殿は滋賀県神社建築の国宝第一号、拝殿と楼門は重要文化財です。本殿は三間堂で屋根は入母屋造りで一見仏堂に見えます。鎌倉時代の建築物で屋根が神社造り、壁面は白壁の仏堂造り、こうし窓と裏側の扉は御殿造りで、3様式合成の「御上造り」とよばれているそうです。




    
本殿にある蠆股を見ましたが国宝の本殿にしては少し物足りなく感じました。由緒書きを見て納得しました。蠆股の中の部分が欠落しているそうです、当初は立派な彫刻が施されていたのでしょう。この御上神社と同じ入母屋造りとしては同じ野洲市にある大笹原神社があります。こちらも本殿は国宝で外部に施された彫刻が見事らしい。まだ訪れたことはないのでいつしか行ってみよう。





  
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2008年05月27日 Posted by 吉祥 at 19:43Comments(4)TrackBack(0)近江歴史回廊

木之本での蟇股









木之本と言えばお地蔵さん地蔵堂に隣接して阿弥陀堂があります、ここの本尊の阿弥陀如来立像と坐像はいづれも国重文に指定されています。この本堂手前に書院があり明治天皇が行幸のおりこの書院にてお泊りになりました。書院内はいつでも随時拝観ができるようです。

この書院の玄関に蠆股を見つけました。精巧に細工が施された見事な彫刻でした、私流ですが蓮華の花を彫ったものではないかと感じました。じっくりと見ることができ、しばし顔をあげていましたから首筋が痛くなる程でした。木之本での現地研修は短い時間内ではありましたが、色々と知ることができ満足で帰途につきました。

  

2008年05月21日 Posted by 吉祥 at 08:57Comments(2)TrackBack(0)近江歴史回廊

木之本宿を歩く


先日の木之本での近江歴史回廊大学は、パンの話題と薬剤師免許については既に書きましたが本題についてはまだ未記述のため改めて記事にしました。一時限は江竜喜之先生による「北国街道・北国脇往還」でした。

    
1・近江は道の国であり東海道、中山道をはじめ北国海道、若狭街道、北国街道、北国脇往還、八風街道、御代参街道、九里半街道、七里半街道等と数多くの街道がとおっていました。このうち早くから名前がついていたのは東海道と中山道で他は明治以降につけられた名前だそうです。とりわけ以外なのが北国海道でこれは昭和50年に大津市史が出来たときこの本文の中で使われだしたと聞き唖然としました。先生の話では北国海道というより江戸の文献にでてくる西近江路の方が正しいのではないかと言う事でした。

2・街道の目印としては松並木、一里塚、道標(道しるべ)がありますが、松並木と一里塚は幕府が作りまた管理をしました。道標は今でいう道路標識でありますがこれは民間の人々によって寄進されたものが殆んどです。江戸時代に入ると人々の生活に余裕が生まれ旅する人がふえました。より的確な行き先を表示するために設置されていきましが、幕府が関知しなかったのは大名行列等で、この方たちはすでに熟知しており取り付ける必要性がなかったためだそうです。道標は文化財として認められにくく又設置箇所からも車にあたって壊されたり、あるいは拡張工事で移設して行方がわからなくなつたりしますが、近年文化財として見直し機運が進んできたのは喜ばしいということでした。現在県内で市町の文化財で14が指定されています。




2時限は木之本宿を歩きました。

木之本はいい水が出ますが街道を歩くと今も醤油製造と造り酒屋がありました。ここは地酒「七本槍」で有名な富田酒造。明治天皇の行幸で天皇が木之本に来られたとき天皇は阿弥陀堂内の書院で泊まられましたが、随行の岩倉具視はここ冨田酒造で泊まられたそうです。


木之本馬市跡、山内一豊の妻はこのあたりで馬を買ったとの言い伝えがあります。大河ドラマで一躍有名になりここ馬宿平四郎家には多くの観光客が訪れたそうです。


  
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2008年05月20日 Posted by 吉祥 at 09:00Comments(4)TrackBack(0)近江歴史回廊

千団子祭り


千団子祭に行ってきました。
三井寺の守護神である鬼子母神の祭礼で千個の団子を供えることから「千団子祭り」の名がついたそうです。鬼子母神とは名の如く女神で自ら千人の子供をもちながら、人間の子供を奪って食べる鬼神でしたがお釈迦様の説法を聞き懺悔して仏法を守護する神となられたそうです。

  
この千団子祭では期間中、護法善神堂の本尊重要文化財・護法善神立像が開扉され、堂前では子供の無事成長を願って亀を池に放す「放生会」が行われます。この鬼子母神像は成道に入ってからは子供のない人には子供を授け、病気を癒しすべての悪事から子供を護ることを誓願されたと言われています。


とは言っても千団子と言えば植木市。



今からすでに半世紀前となりましたが私が子供の時からこの祭りは聞いていました。親父は今のようにホームセンターがなかった時代ですから、江若鉄道(と言っても、この江若鉄道を知る人は少ないと思いますが)に乗ってこの植木市を見るのが楽しみであったようです。園芸好きの私も今まで何度も行ってますが露天を見るだけでも結構楽しかったです。
  
タグ :滋賀

2008年05月18日 Posted by 吉祥 at 15:47Comments(8)TrackBack(0)近江歴史回廊

薬剤師免許第一号


近江歴史回廊大学の受講のため木之本に行って来ました。一時限二時限とも近江地方史研究会の江竜喜之会長の講義でした。一時限はきのもと交遊館で「街道・道標」の座学が、そして二時限は現地研修と言うことで木之本宿を歩いて回りました。先生は元八幡商業高等学校の校長で若くから街道に興味をお持ちになり、近江の街道に大変造詣の深い先生であります。



 ここは木之本宿の元本陣ですが本陣薬局ともいうようです、先生の説明が始まろうとしたら偶然にも当主が出てこられて先生とは旧知の間なのか特別に中に入ることが許されました。今も生活住居で一般に公開はされていません、一度に40人もの生徒が入るものだから一部の人は中にはいれませんでした。中ではこれも特別に当主が説明されていましたが、声も聞けず残念でした。



と言うのも実はここ本陣の前が例の「サラダパン」のお店で私はパンを買っていたため中に入れず終い。この薬看板が意味するのは明治に入り本陣が廃止になり、今の当主の先々代が日本で第一号の薬剤師免許を取られたそうで、室内にもレトロな薬看板と免許の数々が額に納められていました。




ここは北国街道と北国脇往還との分岐点で、ここから北方向が木之本宿で今もこのような古い民家が残っており宿場町の雰囲気が十分に味わうことが出来ました。
  
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2008年05月18日 Posted by 吉祥 at 07:13Comments(6)TrackBack(0)近江歴史回廊

サラダパン




今日は近江歴史回廊の講義を受けるのに木之本まで行って来ました。木之本の街を歩いて知らないことを発見充実した一日でした。先日このサラダパンをブログ記事にしたものですからとりあえずこれから。講義内容はまた後日にします。

   
私は詳しいことは全く知りませんがテレビでもこのパンが放映されたとか、今日現地研修の時間内で買いました本陣の前にお店があって私だけ集団から外れて買い物しました。次から次へと車で買いに来られました、やはり有名店なのでしょうかレジはおばあさんがレジ打ちされていました。食後の後試食をしました、沢庵は感じなかったです事前に知っていたからわかりましたが、もし沢庵が入っていると知らされなかったらわからなかったと思います。

コッペパンに沢庵とマヨネーズが味がしましたがパンが柔らかくて美味しいです。1個130えん近くで売っていたら買います。  

2008年05月17日 Posted by 吉祥 at 21:48Comments(4)TrackBack(0)近江歴史回廊

志那神社の蟇股






蟇股が気になってしまってkao05今日も近くの神社に蟇股探しに行きました。とりあえず志那神社、でもここは本殿が国指定の重要文化財です。本殿は1間流造りの小さな祠ですが重文は重文、いいですね近江はいつでも貴重な文化財がいつでも見られるのですから。ここは板塀がなくて本殿の中まではいれました。

  
本殿の横にも社殿があって船肘木にも蟇股がありました。でもこちらは幕板に彫刻がしているようです、やはり蟇股とは庇のところの梁に施された支えとなるものに彫刻がなされたものではないかと思いました。




この後印岐志呂神社にも行きましたがここにも蟇股を見ました。かなり彫刻が施されているのが遠目でもわかるのですが中にははいれなくて、写真にも収めることが出来ませんでした。

  
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2008年05月16日 Posted by 吉祥 at 20:45Comments(0)TrackBack(0)近江歴史回廊

蟇股(かえるまた)



土曜日の近江歴史回廊大学の続編です。2時限の池野先生の「寺と社・文化財建造物の基礎を学ぶ」はかなり興味が湧く講義内容でした、結果的には昨年と同じ内容ではありましたが昨年聞き漏らした内容が多々あり、文化財建造物に対する造詣が深まったと思っています。

よく言われていますが近江は全国第4位の文化財の保有権ですが、これは東京には国立博物館があり全国から文化財が集まったためであります、一方こと建造物に限ってみるとこれは京都、奈良に次いで第3位だそうです。因みに県内の国宝、重要文化財の総数は228棟でそのうち国宝は23棟を数えます。多いのが大津市で87棟次いで東近江市が16棟、野洲市が14棟竜王町が10棟となります。
社寺建築を研究するにあたって有名なことばして「古代の奈良、中世の近江、近世の京都」とあります。これは古代(飛鳥・奈良・平安)は奈良へ中世(鎌倉・室町)は近江へ近世(桃山・江戸)は京都へと言う事で、鎌倉・室町時代の建造物を知りたければ近江へ行きなさいと言うことらしいです。この時代の建物が全国的にみても数多く残されていると言うことなのでしょう。


  
昨日早速中世の建造物を確かめたくてもっとも近い、下笠町にある本殿が国指定重要文化財の老杉神社に行ってきました。いままで何度も境内には入ってはいますがお参りに行くのと建物を見に行くのとでは大違いでした。失礼のないよう向拝で柏手を打ってきました。この老杉神社は三間社流造で流造とは屋根をそのまま前方に葺きおろして向拝とされているもので、三間とは前室が三間あるということです。この一間とは柱と柱の間のことで
一般住宅の一間(180cm)とは違うようです、と言うことは三間と柱が4本あるというこで2本だと一間社流造となります。近江にはこの流造りの社殿が数多くあるということでした。


  
もう一点面白いと思ったのは蟇股で本来は紅梁と呼ばれる梁の上に置かれ、屋根の重みを支える部材ですが時代が進むにつれここに彫刻がなされまた彩色までほどこされてきました。ここ老杉神社の蟇股は精巧に彫刻がなされ彩色もしてあり画像の由緒書きにも優れたものである記載がありました。蟇股とは蛙が足をひろげた格好に似ているところからきたようです。

この蟇股の好きな方がおられて蟇股の写真ばかり撮られている方がおられるそうです。私も面白い趣味だと思いました、老杉神社の本殿の中は正月以外は鍵がかかっていて入れませんでしたが蟇股はわかりました。ただ何が彫ってあるのかはわからなかったです多分花鳥ではと思われます。基本的な神社仏閣の建物の見方を教えていただき視点を変えてまた見ることが出来そうです。
  
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2008年05月12日 Posted by 吉祥 at 10:27Comments(10)TrackBack(0)近江歴史回廊

近江歴史回廊大学へ




今日は午後から近江歴史回廊大學へ行って来ました。今日から後期の講義ということで、受付でまず授業料を納入のあと教室へはいりましたが、既にほぼ満席状態でした皆さん熱心ですね。

今日は前半が県立近代美術館の高梨先生で後半は県教育委員会の池野先生の講義でした。高梨先生からは仏教美術を池野先生からは県内の寺社仏閣の建造物についての説明がありました。特に後半の部においてはパワーポイントで県内各地の寺社の紹介があり、文化財としての見方のこと細かな説明がありました。

画像で紹介された中にはすでに訪れたところがありますが、歴史的価値と美術品という視点からみていないところもあり、改めてもう一度訪れてみたいと思いました。ただなんとなく見ているのではなくやはり専門的に説明を受けて見て見たいですね。

ところでようやく雨となりました。明日はジャガイモの土寄せもしないといけないし、一日農作業となりそうです。  
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2008年05月10日 Posted by 吉祥 at 19:36Comments(2)TrackBack(0)近江歴史回廊

芦浦観音寺春の一般公開




昨日芦浦観音寺春の一般公開に行ってきました。観音寺の拝観は予約制ですが春と秋には毎年住職の配慮により、予約なしで境内に入ることが出来ます。境内には草津ボランティアガイドの方がおられて説明を随時していただけます。この日は京都、神戸からも歴史ファンがみえられていました。

観音寺は天台宗別格寺院で信長、秀吉の信任厚く。とりわけ第9世詮舜の時代には秀吉より4万6千石の高禄を受けております。湖上の航行権を一手に握りこの航行権でも7千石運上があり、まことに裕福でかつ強大な権力をもちあわせていました。

  

周りに掘りをめぐらせ土塁で囲み表門前は石垣が築堤してあり、お寺と言うより城郭のようであります。信長が比叡山焼き討ちのおり、信長は観音寺が支配する船を利用しなければならないことを察知していた。詮舜を偽って岐阜城に迎え入れ手厚く歓待し軟禁状態にしておいて船を集め焼き討ちをかけたといわれています。

一方観音寺は近江の正倉院とも呼ばれていますが下記の画像、国指定重要文化財の阿弥陀堂、書院をはじめ絵画で5点、彫刻で2点の重文があり、工芸品、書蹟等を含めると数千点からなる文化財の宝庫でもあります。これらは焼き討ちの際事前に比叡山から持ち運ばれたものとも言われています。

画像は続きで!!
  
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タグ :草津大根

2008年05月05日 Posted by 吉祥 at 07:37Comments(8)TrackBack(0)近江歴史回廊

惣社神社の藤



惣社神社の藤はまだ5分咲き状態でまだまだこれからのようです。やや分かり難いところですが神社横には駐車場もありおすすめです。でも今日はここも祭礼が行われるようで避けた方がいいと思います。


  
元郷社で文化財としての指定はないようですが、なかなかどうして本殿は立派な建造物です。
三大神社、志那神社、そしてここ惣社神社の藤と3箇所を見て回るといいですよ。三大神社から志那神社まで車で3分、志那神社から惣社神社まで車で5分ぐらいでしょう。今の季節天候もいいことですから、三大神社の駐車場に車を留めておいてあと歩いて行くのもよいかと思います。

田んぼに水が入り田園風景眺めながらの散策も良いと思います。5日、6日が最適じゃないでしょうか。  
タグ :草津

2008年05月03日 Posted by 吉祥 at 07:52Comments(2)TrackBack(0)近江歴史回廊