志那中港


志那中港に行ってきました。ここから見る比叡山が私は最も美しいと思っています。今日は残念ながら靄がかかっていてよく見えませんでした。写真は旧志那中港にある元太湖汽船の切符売り場です、太湖汽船の切符売り場と乗船場が残っているのも数少なくなってきたのではないでしょうか。太湖汽船については拙文の過去ブログ
太湖汽船を見てください


旧志那中港です、終戦直後までは大賑わいだったと聞いています。


  
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2008年06月21日 Posted by 吉祥 at 20:53Comments(2)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて



穴村の墨灸さんをたずねてみた、現穴村診療所のHPによると、昭和初期にはこの墨灸をうけるのに多い日では、一日1000人からのお客さんで賑わっていたとか。http://www.anamura.or.jp/monmon.htmそしてここにくるのに太湖汽船志那港が利用されていた。http://lycaste621.shiga-saku.net/e5315.htmlもんもんを終えた子供たちはここ文栄堂さんhttp://www.gaido.jp/machikado/2004/10/22dango/でそうもくを親に買ってもらうのであった。

穴村の細い道を入っていくと診療所がありました。今日は診療所休みのようでしまっていましたが、例の樹齢400年の老松みえました。写真右側の松が写っているところが診療所で左側に少し写っているのが吉田文栄堂さんです。いまもそうもく販売されているそうですが、何分手作りのため限定販売とか、木曜、土曜、日曜は休みと張り紙がありました。しかしこの路地裏道に昭和初期の栄華をかいま見ることが出来ました。  

2006年11月05日 Posted by 吉祥 at 09:19Comments(2)TrackBack(0)太湖汽船

まぼろしの山田港駅

明治22年7月鉄道省による湖東線が開通、時同じく明治22年12月関西ではじめての私鉄、関西鉄道(草津と四日市を結ぶために設立)が草津~三雲間を開通させた。その後明治23年3月三雲~柘植間が完成したことにより、関西鉄道草津駅が省線草津駅との連絡駅となった。

ここで関西鉄道は、省線草津駅と連絡するだけでなく、自らも山田港まで路線を延長し山田港~大津を太湖汽船に大津から京都まで疎水によって京都にいたるという計画がなされた。このルートの方が運賃が安くつくという計算であった。しかしこの計画は省線と関西鉄道が立体化されなくてはならず、日の目を見ることはなかった。

もしこの計画が実行されていたならば、今のJR草津線は、柘植~山田港間となっていたのではないか、何か明治のロマンを感じるものである。  

2006年10月16日 Posted by 吉祥 at 21:31Comments(0)TrackBack(0)太湖汽船

矢橋の帰帆

近江八景の矢橋の帰帆として名高い矢橋港は、江戸時代まで、矢橋港~大津の航路があった。この間陸路で行くと16kmであるのが、この航路を利用すれば5kmと近道であるため大いに利用された。しかしこれも前述の蒸気船が運航されるまでのことであった。

明治に入ると大津~山田港がこれにとって変わっていったのと同時に矢橋港自体も衰退してゆくのであるが、ここで面白い記事を見つけた。  

2006年10月16日 Posted by 吉祥 at 20:51Comments(2)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて(その歴史 3)

この航安組の出現により、三汀社、江州丸会社と相次いで誕生し再び各社間で競争が始まった。おりしも明治13年に鉄道局が京都~浜大津間に鉄道が敷設され、また長浜~敦賀間に鉄道鉄道が計画された。このことにより大津~長浜間は、湖上交通を利用する計画に相成ったことにより、鉄道連絡船としての使命が甚大となった。そこで県は明治15年大阪の藤田伝三郎を頭取とした、資本金50万円の合併会社が創立され社名は太湖汽船となった。

特に第一太湖丸、第二太湖丸はわが国における最初の鋼鉄船で、大津~長浜間は日本で最初の鉄道連絡船であった。しかしこの連絡船も明治22年湖東線の開通により、僅か5年でもって廃止となり太湖汽船は、観光船ならびに近距離船と変貌していくのであった。

上記記述のとおり明治22年で連絡船としての使命を終えるが湖上交通の足としての使命は大正、昭和へと受け継がれていったようである。

参考図書 滋賀100年 毎日新聞社  

2006年10月13日 Posted by 吉祥 at 14:22Comments(0)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて(その歴史 2)

ところがこの頃汽船戦国時代に入り客の争奪戦にと発展、過当競争となり M7.11.1長運丸が唐崎沖にてスピードを出しすぎより、汽かんに負荷がかかりすぎたため爆発炎上し数十人が亡くなり。又M8.2.24には満芽丸が過積により小松沖で転覆乗客47人が死亡する事故が相次いでおこった。

このため県は汽船取締役所を設立、汽船発着時刻の認可、乗客定員届出制度、乗船きっぷ販売など数項目に亘る取り締まり規則をつくり、湖上交通の安全規制にのりだした。これによりしばらく沈着冷静になったと思われたが、、、、、、、、、、、、

明治九年谷口嘉助が同僚杉江善右衛門と組航案組をつくり、紺屋ヶ関(浜大津)~草津山田間に就航明治十年に山田丸、末広丸を同区間に就航これが太湖汽船現琵琶湖汽船の前身である。

(10月7日記事より引用)
私は若いころ県庁に行っててここから船でこんやがはま?今の京阪島ノ関まで通っていました。ここからだと汽車で行くよりずっと早かったんですよ、高校生も大商や滋賀女子まで通う生徒もいて満員で、30分位で着きました。昭和33年頃までそうでしたよ、この場所に記念碑2つあります。松田さんのと、もうひとつそこに善右衛門さんのがあります。なにもかもが驚きであった。  

2006年10月12日 Posted by 吉祥 at 00:10Comments(0)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて(その歴史 1)

太湖汽船の歴史をひもとくには、秀吉の時代にまでさかのぼる天正15年秀吉が大津の船持ちに船をつくらせ、湖上船運の特権を与えた「大津百艘」が始まりである。もちろん木造手漕ぎであったた゜ろう。

明治2年元加賀大聖寺藩藩士石川 璋が陸用の汽かんを船に取り付け一番丸と命名し大津~海津に就航させ、船は両側に大きな車輪をつけ丸子船を一艘後部にひいて運航した。当時手漕ぎの舟しかなかった時代にポンポンと黒鉛をはいてつきすすむ船をみて人々はたいそう驚いたというが想像に難くない。

元加賀藩士がこの船を運航させたということは、越前、加賀の産物を京都、大阪に送るためであったのだろうか?

それとほぼ同時期彦根藩の肝いりで宮川庄三郎なる方が大津~米原に金亀丸を、海津の磯野源一郎が大津~塩津間に湖上丸を就航させ湖上交通は百艘から蒸気船の時代へと移り変わっていくのである。

参考図書 滋賀百年 毎日新聞社  

2006年10月11日 Posted by 吉祥 at 20:30Comments(2)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて


今日は天気がはっきりしないので、墨灸さんは次回に行くということで山田港にいってみることにした。太湖汽船を書くきっかけになった、松田国太郎翁の頌徳碑のあるところにはせさんじた。運よくこちらに歩いてくる私より一回り余年上の感じの女性に出会った。太湖汽船の元港があったところは何処か御存知ないですか、と聞いたところここですとのこと、(写真参照)私は若いころ県庁に行っててここから船でこんやがはま?今の京阪島ノ関まで通っていました。ここからだと汽車で行くよりずっと早かったんですよ、高校生も大商や滋賀女子まで通う生徒もいて満員で、30分位で着きました。昭和33年頃までそうでしたよ、この場所に記念碑2つあります。松田さんのと、もうひとつそこに善右衛門さんのがあります。なにもかもが驚きであった。


松田国太郎翁の記念碑から50mほど行った少しおくまったところにこの碑がある、しかし前回まったくきがつかなかった、正四位子爵藤原基揚筆による記念碑である。杉江善右衛門文政5年4月13日この地で生れる明治18年1月11日没、山田村の発展に寄与ならびに太湖汽船の創立に寄与したとある没50年忌を向かえ山田船友会が昭和9年建立とあった。現在は琵琶湖汽船が管理されているようであった。おばさんによるとこの善右衛門さん当時この地の今でいう資産家で田んぼを見回りにいくのに籠に乗っていったとか、へぇーface08face08とすると元港の前にあるうちからお爺さんがでてきた、話の輪にはいっつてもらった、昔はここまでしかみちがなかってわしの家の玄関でたらすぐ桟橋やってそことそこの家は店をやっておられた、人通りが多かったからようはやってた。へぇーへぇーface05face08
この後図書館に行って、太湖汽船に関する本借りてきました一度よく読んで勉強することにしました。得た知識時間かかると思いますが、少しお分けします今少しの時間を。  

2006年10月07日 Posted by 吉祥 at 19:03Comments(0)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて

今日久しぶりに友人に出会った、開口一番WEB、LOG開設の祝いと例の太湖汽船の話に移ってしまった。彼は生まれ育ちが湖南地方であるゆえ、昔話をとくとくと説明してくれたが時代認証が少し違うような気がしてならない。昔は草津から矢倉の瓢箪や?]鞭や?を右に折れて矢橋の港から大津に行くのがルートであったから、矢橋の港はずいぶん賑わいをみせていたというが、それは太湖汽船の時代と少し違うんじゃないと思うのだが、、、、、、、今も港あとには、松の木があるが子供のころの思い出でのこっているのは唯一松の木だけだそうである。

山田にも港があって、というから今漁船の止まっているところと聞いたらそうじゃなくて山田五条っていうところだそうである。

遅まきながら太湖汽船をネットで調べたが時系列で紹介されたものが見当たらない。唯一サイト名 琵琶湖の汽船が見つかった。近々にも墨灸さん(もんもん)も訪れようと思っているが、元山田港、元矢橋港あとも訪れなくてはならない大変なことになってしまった。  

2006年10月03日 Posted by 吉祥 at 21:09Comments(2)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて


太湖汽船志那港跡を訪ねてみた。折りよく私と同年配の方が畑におられたので、
声をかけさせてもらった昔太湖汽船の切符を売っていたとのこと。おばあさんも
なくなって詳しいことは知らないが、ここは昔墨灸(もんもん)現あなむら診療所
のお客さんで大変にぎわっていたらしい。大津・京都から船でこられてこの港で
乗降されたとのことである、このことは墨灸さんのHPにも詳しくでている。

10数年前まではまだここは琵琶湖からの入り江になっていて、昔の面影も少し
残っていたが湖岸道路建設の時、入り江は半分埋め立てられ今は何の面影は残
っていないとのことである。

太湖汽船の看板とか何か残っていませんかと尋ねたところ、あったが琵琶湖博物館の
方に寄付させていただき何もありません、と言いつつ中へ入ってくださいと案内された。ここで切符を売っててこの板も一応看板のひとつと聞いていたが、字が消えてて何が書いてあったのか知らないとのことであった。ちょっと待っててくださいと中からおもむろに出されたのは古めかしい鐘であった。これで発車時間がくると船が出るぞーと言ってならしたものであると聞いているとのことであった。雲行きが今日はあやしいので墨灸さんの道筋だけ聞いてここをあとにすることにした。貴重な話色々とありがとうございましたこの紙面では到底すべて書くことができないのが残念である。  

2006年10月01日 Posted by 吉祥 at 17:11Comments(7)TrackBack(0)太湖汽船

太湖汽船に思いをはせて



頌徳碑なるものに散歩中出会った。
松田国太郎翁明治13年大津市生まれ、謡曲の師匠で
数多くのお弟子さんを教えたらしい。カナ文字まじりの碑
文を判読するのは並大抵ではない、これも浅学のわが
身やむを得ない。

ただ気になったのは太湖汽船に22年間奉職
したとある。ということは謡曲は趣味?
太湖汽船については私はよく知らない、というよりまったく
知らない。子供のころ親父が話してたのをおぼえている
ぐらいだ、しかし家から太湖汽船の○○港の桟橋の杭が
幼少のころ見えたのを覚えている。

今日里の菩提寺に墓参りに行く予定だ、そうだ子供のころ
みた桟橋の杭はどうなっているのか見てくることにする。  
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2006年09月23日 Posted by 吉祥 at 16:38Comments(2)TrackBack(0)太湖汽船