粟田神社

今日京都白川の友人宅に行ってきました。三条通りから白川に入ると人が川の中に?
今日は白川の大掃除だとか、華頂短期大学の生徒さんらが川の中にはいって雑草の刈り取りをおこなっていました.暑いなかご苦労様です。
場所はこちらでhttp://lycaste621.shiga-saku.net/e33332.html#comments

今日の京都はみな月さんを食べる日?
餅寅さんの美味しいみな月です

近くの粟田神社に行ってきました。
地主神社で古くは牛頭天王を祭っていて今は首座が素戔鳴尊あれーこれって実家の天皇神社とおなじですね。http://lycaste621.shiga-saku.net/e31133.html#comments

何故か元三大師の道標が?ありました。
2007年06月30日 Posted by 吉祥 at 20:47 │Comments(0) │TrackBack(0) │近江歴史回廊
びっくり
今畑へ行ってみるとびっくり、ズッキーニが巨大ズッキーニになっていました。昨日の夕方にでも採っておくべきだったか。一晩でとんでもない程大きくなります、毎日観察が必要かも。
2007年06月26日 Posted by 吉祥 at 07:27 │Comments(21) │TrackBack(0) │果菜類
阪神VS日ハム
今日の阪神タイガースと日本ハムの交流戦に招待を受けていました。それもバクネットの最前列しかし昼頃には私とこは大雨でどしゃぶりでした。あーあ折角の甲子園がパーに外にも行けないしふてくされて昼ねしていました。
試合開始時間14時とりあえずTVをつけるとやっている。ウッソーおおあわてで草津駅まで家族に送ってもらい新快速で大阪へ。京都を過ぎるとたしかにそれほど雨がきつくありませんが降っていました。ほんとに野球やつているのか?甲子園着くなり中止だったらと考えると。、、、車内から携帯で逐次情報収集。やっているとのこと。
甲子園着いたら5回裏阪神の攻撃が終わったところでした。
実はプロ野球見るのウン十年ぶりでした。感じたことまずスタンドがカラフルでしたそれに応援がトランペット入りでにぎやかでした。ジェット風船もありました、この風船むだといえば無駄でも今日はケチなこと言わない。これも経済の活性化?
私は今は何処のファンでもありませんが、今日の甲子園みると95%阪神ファンとても日ハムを応援する雰囲気ではありませんでした。とにかく今日の今だけ阪神ファン手拍子で阪神を応援してきました。
試合は3対1で阪神負けちゃいました。9回裏ツーアウトバッター野口でバッターサークルに桜井選手が出てきました。野口が出塁したら藤川に変わって代打桜井の場面でしたが野口はあえなく三振でゲームセット桜井見たかったなあー。桜井選手はPL出身ですが滋賀県出身野洲ボーイズOBです。
甲子園のバクネット裏ではじめて野球観戦しました。今日のTV多分私写っていたのではと思います。迫力満点でした。夏の高校野球一度ここで見たいなあー。
試合開始時間14時とりあえずTVをつけるとやっている。ウッソーおおあわてで草津駅まで家族に送ってもらい新快速で大阪へ。京都を過ぎるとたしかにそれほど雨がきつくありませんが降っていました。ほんとに野球やつているのか?甲子園着くなり中止だったらと考えると。、、、車内から携帯で逐次情報収集。やっているとのこと。
甲子園着いたら5回裏阪神の攻撃が終わったところでした。
実はプロ野球見るのウン十年ぶりでした。感じたことまずスタンドがカラフルでしたそれに応援がトランペット入りでにぎやかでした。ジェット風船もありました、この風船むだといえば無駄でも今日はケチなこと言わない。これも経済の活性化?
私は今は何処のファンでもありませんが、今日の甲子園みると95%阪神ファンとても日ハムを応援する雰囲気ではありませんでした。とにかく今日の今だけ阪神ファン手拍子で阪神を応援してきました。
試合は3対1で阪神負けちゃいました。9回裏ツーアウトバッター野口でバッターサークルに桜井選手が出てきました。野口が出塁したら藤川に変わって代打桜井の場面でしたが野口はあえなく三振でゲームセット桜井見たかったなあー。桜井選手はPL出身ですが滋賀県出身野洲ボーイズOBです。
甲子園のバクネット裏ではじめて野球観戦しました。今日のTV多分私写っていたのではと思います。迫力満点でした。夏の高校野球一度ここで見たいなあー。
2007年06月24日 Posted by 吉祥 at 21:13 │Comments(4) │TrackBack(1) │高校野球&OBC高島
日吉大社の源流と山王祭
昨日ですが大津市歴史博物館であった土曜に行ってきました。
今回のテーマは「日吉大社の源流と山王祭」下鴨神社の嵯峨井建先生が講師でした。先生は現在は下鴨神社ですが20年前は日吉大社の神主さんでした。
山王祭は日吉にいるときは祭りの時は神主でしたから、中にはいっていると廻りで何をやっているのかさっぱり分からなかったが、下鴨に行ってから外から祭りを見ることができるようになり、いろんな方の話を聞けるようになりようやく少しわかるようになったとのことでした。
東本宮の御神体は八王山ではない
「大山咋神、亦名は山末之大主神、此の神は近淡海国の日枝の山に座す。亦葛野の松尾に座す鳴鏑に成りませる神なり。」これは日本最古の書物古事記にのっている一節である。
和銅5年には地主神社として山岳信仰はすでにあった。私も最近聞きましたか゜、嵯峨井講師によると一般的に八王寺にある金大巌が神が宿る巌といわれているが、そうではなくて東本宮の神の山とは西塔と横川の中間あたりにある鯛釣岩が本来の日枝の山に座す神であるとの説明がありました。これは回峰行者の手文でもあきらかなことだそうです。
西本宮の源は何処か
欽明天皇の時大和の大三輪社より垂迹唐埼に住んでいた宇志丸のところに渡御したとある。宇志丸は桂の木でもって神体をつくり社殿を建てたこのことは、「耀天記」=鎌倉時代の書物によってあきらなことである。ここに大己貴命を奉った。
山王祭
山王祭は一ヶ月以上の長期にわたる祭りで東本宮、西本宮系それぞれの神事があります。それは日吉の神が此の地の鎮まった時を神輿とヒモロギで表現されており、牛の神事は大山咋命の出現を、唐埼の神事は大己貴命の出現を当初儀礼として再現しています。この祭りき神仏習合によりおこなわれており、明治までは沢山の人々によって運営されていました。神輿のかづぎ手は地元坂本は当然として雄琴、八瀬、大原からも山を越えて参加されていました。明治に入り廃仏稀釈により一時期天台による五色奉幣は中断しましたが、現在では復活しています。
日吉の祭りを理解するには、5年とも7年とも言います。今年はもう終わってしまいましたが、皆さん是非とも来年はこの山王祭すべての神事を追ってみてください。祭りは理屈じゃありません見てみること、こうやって話を聞くのもいいですがとにかく見てくださいと言うしめくりで終わりました。講義内容を全部ここで書くことは出来ませんがほんの一部紹介しました。
今回のテーマは「日吉大社の源流と山王祭」下鴨神社の嵯峨井建先生が講師でした。先生は現在は下鴨神社ですが20年前は日吉大社の神主さんでした。
山王祭は日吉にいるときは祭りの時は神主でしたから、中にはいっていると廻りで何をやっているのかさっぱり分からなかったが、下鴨に行ってから外から祭りを見ることができるようになり、いろんな方の話を聞けるようになりようやく少しわかるようになったとのことでした。
東本宮の御神体は八王山ではない
「大山咋神、亦名は山末之大主神、此の神は近淡海国の日枝の山に座す。亦葛野の松尾に座す鳴鏑に成りませる神なり。」これは日本最古の書物古事記にのっている一節である。
和銅5年には地主神社として山岳信仰はすでにあった。私も最近聞きましたか゜、嵯峨井講師によると一般的に八王寺にある金大巌が神が宿る巌といわれているが、そうではなくて東本宮の神の山とは西塔と横川の中間あたりにある鯛釣岩が本来の日枝の山に座す神であるとの説明がありました。これは回峰行者の手文でもあきらかなことだそうです。
西本宮の源は何処か
欽明天皇の時大和の大三輪社より垂迹唐埼に住んでいた宇志丸のところに渡御したとある。宇志丸は桂の木でもって神体をつくり社殿を建てたこのことは、「耀天記」=鎌倉時代の書物によってあきらなことである。ここに大己貴命を奉った。
山王祭
山王祭は一ヶ月以上の長期にわたる祭りで東本宮、西本宮系それぞれの神事があります。それは日吉の神が此の地の鎮まった時を神輿とヒモロギで表現されており、牛の神事は大山咋命の出現を、唐埼の神事は大己貴命の出現を当初儀礼として再現しています。この祭りき神仏習合によりおこなわれており、明治までは沢山の人々によって運営されていました。神輿のかづぎ手は地元坂本は当然として雄琴、八瀬、大原からも山を越えて参加されていました。明治に入り廃仏稀釈により一時期天台による五色奉幣は中断しましたが、現在では復活しています。
日吉の祭りを理解するには、5年とも7年とも言います。今年はもう終わってしまいましたが、皆さん是非とも来年はこの山王祭すべての神事を追ってみてください。祭りは理屈じゃありません見てみること、こうやって話を聞くのもいいですがとにかく見てくださいと言うしめくりで終わりました。講義内容を全部ここで書くことは出来ませんがほんの一部紹介しました。
2007年06月24日 Posted by 吉祥 at 09:48 │Comments(10) │TrackBack(0) │近江歴史回廊
雨上がり
先日の雨で畑の野菜が俄然元気よくなりました。

とりあえず今の畑の野菜達を写しました。

とりあえず今の畑の野菜達を写しました。
2007年06月23日 Posted by 吉祥 at 20:32 │Comments(6) │TrackBack(0) │家庭菜園
今朝のズッキーニ

ズッキーニはかなり大きくなります今で、径50センチ位でしょうか。
かなり場所をとります、もう少し小さければよいのですが。

今日朝花が咲いていました。確かにかぼちゃの花とよく似ている。

雌花の元にズッキーニが見えます、このままでは腐ってしまいます。
交配をしました。

受粉完了上手くいったようです、明日にでもなれば食べ頃になるはずです。
一晩でずいぶん大きくなります。
2007年06月20日 Posted by 吉祥 at 11:58 │Comments(6) │TrackBack(0) │果菜類
高島の街を歩きました。

乙女ヶ池。
ここも昔は内湖でありました。大溝城はこの池を外堀としていました。

大溝城跡。
築城は織田信長の甥の織田信澄です。
近江を征するものは天下を征する、信長は安土に城を築き長浜に秀吉を、坂本に光秀を配しここ大溝城自分の身内を置いたのは、近江を環状的に統治するためでしょうね。
大溝城跡は石垣も残っていました。乙女ヶ池も当時はもっと大きかったであろうし、この石垣近くまで入り江だったのでしょうね。
大溝城は本能寺で信長が倒れたあと信澄は大阪城にて丹羽長秀に殺害されました。その後城主は度々と入れ替わり伊賀上野より分部光信が1591年に入城されました。

近藤重蔵謫居(たっきょ)跡
「たっきょとは、罪を得て遠いところに流されることです」
北方探検家近藤重蔵は近江の生まれではありません、江戸の出身ですしかしここで暮らすことになりました。
それは、長男の富蔵が江戸の本宅にて隣人と土地の境界のことで争いとなり、四人を殺傷するという事件をおこしてしまいました。重蔵は其の件で親として監督不行届ということで、分部藩預かりの身となりこの謫居跡で牢獄生活を強いられる破目になりました。

近藤重蔵の墓がある瑞雪禅院
明治に入り亡くなったあとではあるが赦免され、M44年北方探検の功績により正五位が贈られています。

大溝藩として唯一残る惣門。

分部家12代が眠る円光禅寺内の墓所
近藤重蔵の墓所もここから目と鼻の先です。
2007年06月19日 Posted by 吉祥 at 13:45 │Comments(0) │TrackBack(0) │近江歴史回廊
堅田の街を歩きました。
土曜日のことですが、近江歴史回廊大學で湖西湖辺の道現地研修ということで、堅田と高島の町並みを散策してきました。ここ野神神社には勾當内侍の御廟があります、勾當内侍とは宮中内侍局あったものであり女官の地位では上位職でありました。後醍醐天皇に仕えた忠臣新田義貞の妻で、義貞が足利尊氏にやぶれ越前に奔走する際勾當内侍は当地に取り残されてしまい、上京を待ったが義貞は藤島の戦いで戦死した。この悲報を聞きつけた勾當内侍は、気が狂い琴が浜(野上神社の東側の浜辺)で入水自殺したのである。この神社の奥に塚がありました。




堅田は内湖が入り江が入り組んでいました。今も僅かですか残っていました、また町中をあるいてみると虫篭窓がついた古い民家もありました。


出島灯台、湖にある灯台は全国的にも珍しいものです。

居初家は古くは豪族であり後湖上交通、漁業の特権を与えられていました。茶室から見る庭園は琵琶湖を借景にさつきの花がなんとも綺麗でした。

一休和尚ゆかりの祥瑞寺(臨済宗)
一休和尚はここに23才から10年間修業されました。

光徳寺の源兵衛の首の話
堅田の漁師源兵衛は、浄土真宗中興の祖蓮如が法難を受け三井寺に預けた宗祖親鸞の御真影を取り戻すため、自らの首を差し出しました。今もここに首があるそうです
2007年06月18日 Posted by 吉祥 at 12:33 │Comments(4) │TrackBack(0) │近江歴史回廊
近江歴史回廊大学一日研修

今日は早朝より近江歴史回廊大學一日研修に行ってきました。
今日のテーマは゛北国海道拠点の町を訪ねる゛講師は旅行作家の西本椰枝先生でした。先生はわざわざ西宮からかけつけてくださいました。有難うございました。
午前中は堅田の町を午後は高島の町を散策しました。
とりあえず今日は天然図画亭庭園からです。あと堅田と高島後日記事にします。
2007年06月16日 Posted by 吉祥 at 20:46 │Comments(2) │TrackBack(0) │近江歴史回廊
枇杷の話

我が家に樹齢20数年になる枇杷の木がある、木を植えた覚えはまったくないひとり生えであり、放任状態。しかし毎年実を付けてくれる、市販のものにくらべると半分ほどの大きさ、しかしみずみずしさと甘さはひけをとらない。いやーそれ以上かも以前聞いたところによると、イチヂクもそうだがビワは日持ちが悪く、店頭に並ぶ頃には本来の味が抜けてしまうそうである。
あの大きいなビワは自家栽培では出来ない、摘果と肥料と愛情がなければ出来ない、昔に比べて輸送方法は格段に進歩していると思われるのだが?
生産農家が愛情こめてつくられた農産物、流通にもう一工夫できないものだろうか。
2007年06月13日 Posted by 吉祥 at 08:53 │Comments(6) │TrackBack(0) │果樹
短形自然薯

短形自然薯で品種はげんこつ次郎です。
名前がいいですね、八幡の太田種苗さんで種芋買いました。

太田種苗さんによると6、7月にドンと肥料をやる、8月はみずやりをこまめにかかさずにやることだそうです。トマト、なすびは失敗してもいいのですが、山芋は失敗は許されません。
理由、酒の肴のためです。
2007年06月10日 Posted by 吉祥 at 18:14 │Comments(4) │TrackBack(0) │根菜類
トイプードル

今日は天候不安定でしたね。近くの運動公園に散歩に行きました。
雨あがり、木々の緑が綺麗ですねぇー。

近くの方が犬の散歩に来られていました。
犬の種類は、トイプードルとか興味なくてすみませんです。
名前は、「てまり」さんで女の子だと飼い主さんがおっしゃっていました。
2007年06月09日 Posted by 吉祥 at 19:05 │Comments(4) │TrackBack(0) │散歩道でみたもの
丸くなってきました。

コールラビーが丸くなってきました。今で径5センチちょっと程、
どれぐらいの大きさになれば食べ頃になるのかなあー。

これがキャベツとは、とても思えませんが葉っぱは確かに
キャベツに似ています。
2007年06月07日 Posted by 吉祥 at 08:42 │Comments(4) │TrackBack(0) │葉菜類
明智光秀の首塚

「6月3日付けにとんでもないものがあります」の記事http://lycaste621.shiga-saku.net/e34574.htmlアップです。
実はこの友人宅近くに、明智光秀の首が埋まっていると伝承されている、祠があります

本能寺で織田信長を急襲した光秀は、山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れて敗走するも農民に襲われ自刃した。家来が光秀の首を落とし、知恩院の近くまで来たが、夜が明けたためこの場所に首を埋めたと伝わる。
滋賀咲くブロガーだけの特ダネ情報です。

上記の文章はここから引用しました。

この祠を代々管理されてこられたのが、餅寅さんで、餅と和菓子のお店をやっておられます。(最初の写真です)祠の場所は細い路地を入ったところですが、ちょつと分かりにくい。とりあえずこの餅寅さんを見つけることですね、運がよければ光秀のお話を聞けるかも。
昨今の歴史ブームでここの女将と旦那さん、ラジオや新聞のインタビューに度々登場されています。

滋賀咲くブログからやって来ましたと一言付け加えてくださいひょっとしたら説明していただけるかも(約束は出来ませんが)。
ここの餅寅さんの名物はなんと言ってもこの光秀饅頭です
坂本の西教寺に光秀一族のお墓があると言うのは、県内の方はご周知でしょうが、ここも一度訪れて見られてはいかがでしょうか。白川沿いの風光明媚なところで、青蓮院門跡、知恩院は歩いて数分の近くです。
2007年06月05日 Posted by 吉祥 at 12:43 │Comments(6) │TrackBack(0) │近江歴史回廊
今日の鹿ケ谷

鹿ケ谷かぼちゃが順調に育っているようです。ここまでくるともう虫には負けないでしょう。
あとは早くつるが出るのを待つのみです。
2007年06月05日 Posted by 吉祥 at 06:42 │Comments(6) │TrackBack(0) │根菜類
京都切廻り

今日祇園で放生会があるからと、京都の友人の「餅寅」さんからお誘いを受けていましたので、早朝より行ってきました。放生会とはhttp://lycaste621.shiga-saku.net/e33332.html比叡山から阿闍梨さん降りてこられるそうです。

白川にかかる行者橋、友人宅前にはAM8:00頃を通られるとのことでしたから、待っていましたが、阿闍梨さんをカメラに写すのは御法度らしくて残念でした。法螺貝の音とともに「峯の白鷺」と称される阿闍梨さんが見えました。お加持を受けるため界隈の人々がひざまついていました。
写真のないのが残念です、せめて遠景でも許可してほしいですねー。
写真は阿闍梨さんが通って行った行者橋

この放生会歴史はそれ程古くはないみたい。京都切廻りにあわせて26年前からおこなわれるようになった行事だそうです。
*京都切り廻りとは、回峰百日のうち一日だけ旧京都市内にある神社、仏閣を巡拝する行である。コースは千日回峰行の第900日に修される京都大廻りと同じく、衆生済度を願うための化他行として行じられる。切り廻りでは、沿道にある信者の家への「お立ち寄り」がゆるされる、お立ち寄り先では、先祖の回向ならびに所願成就を祈念するお加持が奉修される。
ところでこの友人宅近くには、とんでもないものがあるんですよ。
それは次回の記事でアップします
2007年06月03日 Posted by 吉祥 at 21:11 │Comments(4) │TrackBack(0) │近江歴史回廊
大津歴博土曜講座
大津歴史博物館の土曜講座に行ってきました。
テーマは街道と宿場の資料を読む=大津宿から草津宿へ=
県内の東海道の宿として大津、草津、石部、水口、土山とありますか゛、大津には資料がほとんど残っていないとのことでした。
東海道五十三次として宿の体裁がととのったのは参勤交代が確立してからでありました。この宿場の働きは1、休伯として2、人馬継立のための二点でした。
1、当時旅人は宿場以外での宿泊は禁止されていました。しかし宿場~宿場の間「間の宿」「立場」で泊まる人もありました。というのは間の宿は宿場で泊まるより安くついたためです。宿場の本陣は大名が泊まるところであり、一般の人は旅籠で泊まることしか許されませんでした。草津、大津ともに旅籠は70軒前後あり強引な客引きがおこなわれいました。
参勤交代の諸事情もおもしろおかしく説明がありました。
テーマは街道と宿場の資料を読む=大津宿から草津宿へ=
県内の東海道の宿として大津、草津、石部、水口、土山とありますか゛、大津には資料がほとんど残っていないとのことでした。
東海道五十三次として宿の体裁がととのったのは参勤交代が確立してからでありました。この宿場の働きは1、休伯として2、人馬継立のための二点でした。
1、当時旅人は宿場以外での宿泊は禁止されていました。しかし宿場~宿場の間「間の宿」「立場」で泊まる人もありました。というのは間の宿は宿場で泊まるより安くついたためです。宿場の本陣は大名が泊まるところであり、一般の人は旅籠で泊まることしか許されませんでした。草津、大津ともに旅籠は70軒前後あり強引な客引きがおこなわれいました。
参勤交代の諸事情もおもしろおかしく説明がありました。



