志賀清林のこと

吉祥

2022年08月02日 12:04



志賀町の志賀は志賀中学校の志賀を拝借しました。そして志賀中学校は和邇村、木戸村が合併して組合立として昭和22年に開校となりました。この時に学校名に志賀をいれたのは、木戸村出身の行司の祖と伝わる志賀清林の志賀を使ったものです。

子供の頃、誰に聞いたのか全く記憶にないのですが、奈良時代の頃奈良で野見宿禰(のみのすくね)と当麻蹶速(たいまのけはや)の間で争いがおこった。そこで相撲で決着を付けようと相成ったのですが、当時の相撲は殴る、蹴る、の荒々しい相撲だったそうです。そこで木戸村出身の行司志賀清林が、相撲の基本技48手を考えたそうで行司の祖と崇められている人だと幼少の時聞きました。

しかし後々に知ることになるのだが、野見宿禰も当麻蹶速も奈良時代の人物じゃなくて古墳時代の人物だとか。ウィキで見ると神代の歴史人物のようです。そして志賀清林の事だが文献等には一切その記述が見つからず、熊本の吉田司家に伝わる由緒書にのみ知ることができるらしいです。そこでどうして現在この大津市木戸に、冒頭の玉垣で囲まれた立派なお墓が存在するのか調べることにした。。



明治の中頃木村瀬平という三役格行司さんがいて、この方志賀清林の事を常々想っていらっしゃったようで、東京相撲出身で引退した加藤山と云う元力士に、滋賀の木戸村に志賀清林のお墓があると思うのだが調べてくれないかと依頼した。加藤山は知り合いのつてを頼って木戸村の有力者に協力を依頼したのだが、最初はそれらしき墳墓は見つからなかったのだが、村の共同墓地となっている一角に古い墓石があると連絡が入った。そこは村の住民にとっては足を踏み入れる場所ではなかった。昔ここにあった墓石を動かした所、謂れなき高熱が出たからである。村人はそっとその墓石を元の位置に戻したのだと云う。村の伝承によるとそこは元力士の墳墓であるとの伝承がある所だった。

この話を木村瀬平に伝えると、明治35年に大津で勧進相撲興行があった折、木村行司が木戸村に立ち寄りその墓石を確認した(画像の石)。墓石とみられる石を丁寧に洗いこすると、胡坐をかいた褌姿の力士像とおぼしき刻印された像が浮かんできたそうです。

木村瀬平によると志賀清林は奈良時代の力士、行司で聖武天皇の時代相撲節会で行司をしました。志賀家はその後平安時代まで続いていたが平安期に断絶してしまいました。志賀家に伝わる文書、遺品はその後熊本の吉田司家が引き継いだとある。このことは吉田家の由緒書に明記されているようです。余談となりますが、私が若いころスポーツ新聞でこの吉田司家のこと新聞記事でよく見ました。横綱に推挙するのもこの吉田家がやっていたのでしょう?。それが昭和58年頃吉田司家に問題が発生して破産となってしまったようで、今では横綱に昇進した折吉田家で行われていた土俵入りは今ではやっていないようです。て、云うか相撲協会もうちとは関係ございませんとのことだそうです。それはいいんだけど吉田家にあった志賀清林の古文書は今、どこにあるのですかね。

そこで話を元に戻って、志賀清林墓発見となったからには、顕彰碑の建設をとなっていったようです。







【今も残っている顕彰碑】



【三都相撲協会の文字が見えます】
当時は大阪相撲、東京相撲ら京都相撲があつたようで、三都とはこの三地域の興行を指すのでしょうか。


大正7年に三都相撲協会が志賀清林会を発足して、顕彰碑建設への機運が出来あがりました。総裁には板垣退助、会長に吉田司家23世吉田追風、そして委員長には吉井千代吉が就任しました。吉井千代吉は大津の実業家で近江舞子に広大な旅館を経営されており、近江舞子の呼称はこの方の発案なんだそうですよ、後々には大津市長も務められたとか。しかしそうそうたるメンバーだったんですね。

そして出来上がった碑文の刻銘は板垣退助による篆額・撰文今屋友次郎陸軍少将の書、除幕式当日には板垣退助自らの臨席の下盛大に行われたそうです。その後志賀清林会の活動も止まってしまったのか、忘れられた存在だったのですが昭和36頃当時の志賀町長の発案により、素人相撲大会が行われるようになりました。

昭和39年には念願であった屋外屋根付き土俵も完成し、横綱栃の海、露払い若鳴門、太刀持ち北の富士、行司式守伊之助による横綱の土俵入りで土俵開きが行われました。
現在北の富士さんはNHKの相撲開設をやっておられます。昨年だったか、中入りの取り組みが始まる前に、懐かしの思い出話で栃の海関のこと話されていました。その時私はテレビ見ていたのですが、志賀清林の事は出てこなかったなぁ~。北の富士さん志賀町で土俵開きに来ていたこと覚えているかなぁ~、覚えていたら番組内で喋ってほしいなぁ~。


板垣退助と彫られた文字が見えます。


篆額というのはこの事?、よく知らないけどこの文字は篆書といわれるものですよね。明治時代はトンネルの入り口とかに、元勲の篆書が今も数多く残っていますわね。あれは扁額と云うのですかよく分からんです。


野見宿禰(のみのすくね)
と読めるのですが、漢字ばかりで文章が読めません。野見宿禰がどうしたのかしりたいなぁ~。


こちらは当麻蹶速(たいまのけはや)


最後になりましたが、吉田家の記述もあります。

今回をもって二の志賀のブログを終えたいと思います。志賀町の志賀は、早くから志賀清林の志賀を執ったものだとは思ってはいましたがこれですっきりしました。思いつきのままブログを書いたものですから、読みづらいとは思いますがご了承ください。今回の資料については志賀町史を参考にさしてもらいました。

それにしても日本の相撲史、奥が深いですね。










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