大津百艘船
今、大津歴史博物館で開催中の大津百艘船の企画展に行ってきた。これは豊臣から徳川にかけて大津港に出入りする船仲間の組織、大津百艘船に関する資料1237点が一昨年重要文化財の指定を受けたことにより企画された展覧会である。
滋賀と云えば琵琶湖。
古代から近江の国は琵琶湖の水運に深くかかわってきた。古くは平清盛が日本海の物資を京の都に運送するのに、敦賀~塩津間を掘削して琵琶湖を利用した大運河を計画した史料も残っているらしい。江戸中期に河村瑞賢が西回り航路を立ち上げるまで、敦賀から近江塩津まで陸送し塩津から坂本、大津に舟運でもって運びこまれた事により大津の町は当時では大都会とは言えないにしろ発展していたことは明らかである。
滋賀県文化財保護協会が数年前からバイパス建設に伴い、近江塩津港の遺跡発掘調査を実施された結果、平安時代の近江塩津港の遺構が発見されたとのニュースもあった。琵琶湖の湊(港)についての研究が全く進んでいない中でのこのニュースは、琵琶湖の湊についての本格的な発掘は初めてのことであると、昨年瀬田の文化財保護協会であった塩津遺跡成果展示会で知った。
中世の頃までは塩津~大津に陸揚げされる物資は、どちらかと云えば坂本港に陸揚げされる荷物の方が多かったと聞いたことがある。坂本~志賀越(山中越)~京都、そのため信長はその流動を監視するため光秀に坂本城を築かし、森可成を宇佐城主にしたと聞いたことがある。
展覧会場に入ると140点からなる資料が展示してあった。その殆どが古文書、高札関係なので解説しているとは我が能力では分かりづらかった。秀吉が大津百艘船組織を作ったのだが、その管理を任されたのが草津市にある芦浦観音寺です。芦浦観音寺所蔵の資料も何点か展示されていて、これらは興味湧くところなので注意深く目を通しました。
大津百艘船万留帳と書かれた左に◎があるがこれは重要文化財であるとの印。〇が県指定文化財で△は市町村指定の文化財なんた゜そうです。もう一つ、NO99と書かれた左に篆刻印が押していますが、これは写真撮影可能ですと云うことです。因みに撮影禁止の資料もあってこれには赤でカメラマークに✖がしてありました。画像の資料はよって撮影可能なんだけど、文書は読めないのであえて写さんかった。
芦浦観音寺にはこれまで一般公開で何度か訪れたのだが、本堂の前に納豆蔵と云う土蔵が今も現存しています。この土蔵で江戸初期から納豆作りが行われていたようで、毎年歳暮に納豆を50捉百艘船に送られていたらしい。だけど50捉では少ないと思うのだが、当時では納豆は貴重だったのかも知れない。
明治初期の大津港なんだそうです。絵葉書だそうですが私がこの日一番記憶に残った資料の1枚です。この場所に初代の官営大津驛がありました。明治15年頃には太湖汽船の船着場で、長浜~大津を結ぶ日本初の鉄道連絡船の港でもあります。
関連記事