高島の街を歩きました。
乙女ヶ池。
ここも昔は内湖でありました。大溝城はこの池を外堀としていました。
大溝城跡。
築城は織田信長の甥の織田信澄です。
近江を征するものは天下を征する、信長は安土に城を築き長浜に秀吉を、坂本に光秀を配しここ大溝城自分の身内を置いたのは、近江を環状的に統治するためでしょうね。
大溝城跡は石垣も残っていました。乙女ヶ池も当時はもっと大きかったであろうし、この石垣近くまで入り江だったのでしょうね。
大溝城は本能寺で信長が倒れたあと信澄は大阪城にて丹羽長秀に殺害されました。その後城主は度々と入れ替わり伊賀上野より分部光信が1591年に入城されました。
近藤重蔵謫居(たっきょ)跡
「たっきょとは、罪を得て遠いところに流されることです」
北方探検家近藤重蔵は近江の生まれではありません、江戸の出身ですしかしここで暮らすことになりました。
それは、長男の富蔵が江戸の本宅にて隣人と土地の境界のことで争いとなり、四人を殺傷するという事件をおこしてしまいました。重蔵は其の件で親として監督不行届ということで、分部藩預かりの身となりこの謫居跡で牢獄生活を強いられる破目になりました。
近藤重蔵の墓がある瑞雪禅院
明治に入り亡くなったあとではあるが赦免され、M44年北方探検の功績により正五位が贈られています。
大溝藩として唯一残る惣門。
分部家12代が眠る円光禅寺内の墓所
近藤重蔵の墓所もここから目と鼻の先です。
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