豊臣秀次公を偲んで

吉祥

2012年12月25日 16:14

土曜日に県の文化財保護課主催の近江歴史探訪で八幡山城を訪ねてきました。八幡山城は言わずと知れた豊臣秀次が築いた城。天正13年(1585年)に若干18才で城主となっています。
その後秀次は1590年に尾張清洲に移っているようですから、実質5年間しか八幡にいなかったみたい。それと城自体は秀次事件によって割腹自殺の後、京都の聚楽第と共に淀殿によって廃城となってしまったそうです。

秀次は秀吉の姉智子の子であるから秀吉にとっては甥にあたります。秀吉に子供が出来なかったので、子養子に迎え入れるのですが、晩年に謀反の罪により高野山にて割腹自殺を命令された悲運の将でもあります。

謀反の嫌疑とは一体何なのかは諸説があるようですが、一般的には備中の毛利と組んで秀吉を企てたこと。もう一つは長年子供にできなかった秀吉に、淀殿との間に秀頼が誕生し胡散臭くなってしまったことがあげられています。割腹自殺させた後、秀吉は秀次の正室から側室に子供、家来を含めて38名の首を三条河原に晒したらしいから何をいわんやかですよね。
俗説の中には淀殿が生んだ秀頼は秀吉の子ではなくて、秀次の家臣の子でありそれを秀次が知っていたためだとかと言う三流小説まがい説もあるようです。

殺生関白とも言われ、かなり凶暴な性格の持ち主であったようですが、八幡の町を商業都市としての礎を築いたことには間違いはなさそうです。



八幡公園で集合の後3班に分かれて、まず秀次館跡をめざしました。八幡山は急峻な為に実際は秀次は山麓の居館で過ごしていたようです。館跡と周囲は遺跡発掘作業も行われていて、金箔瓦などが出土され又周囲には家臣群と思われる居住跡も確認されているようです。
大手道と称されている細い道を登ると画像の石垣が見え、この後ろ側が秀次館跡だととのことでしたが雑草と荒地で前に進めませんでした。話しによるとこの先からが大手道と考えられ、主廓へ通じると思われるのですが土砂崩壊で谷が崩れ落ちてしまって行けないそうです。そのため残念なことに発掘調査も未調査で、このことが八幡山城の全体像が不明なんだそうです。

という訳で一旦戻って公園裏からロープウェイに沿って、整備された登山道から登攀を開始しました。寒い日でしたが山頂近くでは上着を一枚二枚と脱いでの山登りでした。



本丸と思われる石垣ですがクサビが打ち込まれているのが見えるでしょうか。矢穴と言って石に穴を穿いて方形に割っていくのだそうだが、現在でもこの方法がとられているようです。

 




秀次の母が秀次を弔って京都に瑞龍寺を建てたのだが、昭和に入ってこの地に移されています。30年ほど前に来たときですが尼にが住職としておられました。元宝塚出身のスターで小笠原なんとか言ったと思うのですが。水之江滝子さんとコンビだったのでは?。どちらが男役で女役?。



下山の時にはようやく霧のほうも少し消え伏せたでしょうか。



安土には元から常楽寺港という湊があったが八幡には港がありませんでした。そこで秀次は運河を造り琵琶湖から船が出入り出来るようし、そして琵琶湖を通行する舟は必ず八幡堀に寄港するように掟を定めたとあります。
そのことが近年まで続き八幡商人の活躍の場となったようです。



浄土真宗八幡別院。
家康が上洛のおりに宿泊している記録があるそうです。それと朝鮮通信使の昼食所となっていました。朝鮮通信使一行は中山道を通らずに、野洲の行畑から別れて八幡を通り、彦根の佐和山城下を通って中山道に合流しています。
あえてこのくねくねした道を通ったのは、少しでも国土を広く見せるためだと聞いていたのでそのように信じていましたが違いました。
しかしこの一行ですが、出迎え側を含めて多い時は千数百名が行進したと言います。食事の準備はさぞかし大変だったというか、どのようになされていたのか興味がわく所です。





関連記事