昭和40年頃の浜大津
昨日からの続きブログなのだが、大谷で昼食をとってすぐさま歩きだした。気心知れた濡れ落ち葉が三枚だから、何もかも即決なのが良い。国道一号線の下り坂を歩くと間もなく、浜大津と草津方面の分岐まで来てしまった。旧東海道は浜大津方面を歩くことになる。トラックや乗用車が行き交う国道では、もはや東海道の面影を探すことは到底不可能なことであった。
西の方に目を向けると京大の地震観測所が見えた。ここには明治初期の東海道線のトンネルが残っていることは知っていたが、いつも門扉で閉まっていて中に入れることはなかった。ところがこの日どういう訳か門扉が開いていた。道路脇の側溝の補修が行われていて、どうやらその工事車両を停めるために開いていたようだ。
誰もおらないので無断ではあるが、三枚の落ち葉は侵入することになった。
初めて見る鉄道記念物のトンネル。レンガ造りでいかにも明治風であった。30mほど先で閉じられていたが、この先はどうなっているのだろうか。それと現在のJR線がすぐ近くを通っているのだが、角度が90度違うがこの差はなんだろうか。明治の頃の東海道は、山科では今の新幹線の近くを通っていて、奈良線の稲荷駅に出たと聞いたことがある。
その後京阪上栄町駅附近から電車通りに入り、明治天皇聖跡まで来た。この附近に大津の本陣はあったと聞いていて、同行者に説明したら最近草津で大津の古絵図が見つかって、本陣、脇本陣が五軒記載されていたと言う。私もこのニュースはネットで見て知っていたが、流石濡れ落ち葉三枚組だと思った。
札の辻までやって来て、東海道は右折れで左側に進路をとると北国海道で敦賀まで続いていると説明した。それに突き当たりに花登筐の生家があると言うと、どうも反応が薄かった。東海道を暫く進んで大津駅まで行くと、今日の予定終了なのだが時計を見るとまだ2時10分で帰るには早すぎた。ここから5分程のところに、曳山博物館と大津百町館があってどちらも無料なので、時間をつぶさないかと提案したら行くことになった。
大津百町館は以前と比べて、西側の文泉堂の店があったところも百町館が使っているようで驚いた。窓越しに中をのぞいていたら大津百町の写真展でもやっているようだ。中から男性が出てきて、どうぞお入りくださいと言う。今、大津百町のビデオをやっているので見てくださいと椅子席をすすめられた。ビデオは大津の街の古老達の昔話しのようであったが、大津生まれでない我々にはよくわからなかった。ビデオは4編から構成されていて、10分ほどしたら一編が終わった。全部見るとなると、一時間以上もあるようなので席をたって写真展を見ることにした。招きいれてくれた男性が何処からきたのかとか色々聞かれた。私は県内産なので多少なりとも大津の町のことは分かるが、同行の二人は県外産なので興味は薄かったのではなかろうか。
ところでこの男性どこかで見た顔。名前を聞くのは失礼かと思い、聞かなかったがどうも気になる。この百町館には辛い想いがあり、そんなことを考えて写真を見ていると、目は確かに写真を見ているのだが頭は他の考えていて結局、どのような写真だったか全く覚えていない。
とまあ~ここ百町館をお暇することにして外に出ようとしたら、またしても男性が旧大津公会堂でも大津百町博覧会やっていて、3階に昭和40年頃の浜大津のジオラマが展示してあるのでよかったら見ていってくださいという。ご丁寧に場所まで教えていただいた。
余談だがこの百町館は過去大津百町館を守る会が運営していた。男性によると今は財団法人とかになっているようだ。
公会堂に行くと二階では写真をやっていて、三階にあがると昭和40年頃の浜大津を再現した模型が展示してあった。そしてここでも百町館と同じビデオをやっていた。第何編の作か分からないが、先ほど百町館で見た男性がインタビューしているのが写っていて驚いた。受付の女性の方に、インタビューしている男性はどなたですかと聞いたら、大津歴史博物館の樋爪館長だって。思わずあ~あ~と言ってしまった。おかげさんですっきりしましたわ。
私にとっては昭和40年頃の浜大津というと、もう滅茶苦茶思い出が詰まっているところでじっくり見たかったのだが、同行の方は当時は多分県外で暮らしていたから関心が薄いであろう。あまり長く、ここにいるのも悪いので退出したが、会期がいつまであるか調べて出来たら一人でもう一度行きたいと思う。
このあと大津事件があったところを教えてほしいと言うものだから、案内して岐路についた。Kさんの万歩計によると2万4000歩だと聞いてびっくりした。それほどしんどくは思わなかったのだがね。
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