穴村から長束へ

吉祥

2013年05月11日 08:43



前回からの続きです。
老杉神社から次の目的地の穴村の墨灸へとむかいました。農道を横切って葉山川を渡ることにしました。特別参加の方が、こういう道は地元のしか絶対に分からんへんからねーと。確かに知っている者にとっては何んでもない道なのだが、初めてこの辺りを歩く人にとっては何処に行き着くやら謎の世界かも知れません。

北大萱という町内に入って一応宝光寺の方に行くことにしました。藤で有名な三大神社の東の方角にあたります。このお堂には素晴らしい仏像があると聞くのですが、残念なことに秘仏とかでいつも扉は閉まったままです。ネットで調べてみてもここの仏像だけは画像が出てきませんので、まだ一度も開帳はしていないのかも知れないです。見せないといわれると見たくなると云うのが人情なのですが。



写真の奥にあるのが、今は診療所となっているが穴村のもんやさん。診療所の前にはだんごで有名な玉栄堂さんが、今も営業を続けておられるみたい。昭和の中頃まではこの通り界隈は大勢の人で大層賑わっていたみたい。旅館まであったと以前地元の方に聞いたことがあります。



この穴村にある鎮守の社は安羅神社。なんでも日本書紀によると新羅の国の皇子様が、陶工、医術、機織、製鉄などの技術者を携えて、瀬戸内海から淀川を跨いで近江の国に入ったと云う。この穴村で医術を残して竜王の鏡に赴いただとか。
皇子様は天日槍と言ってこの安羅神社と竜王にある鏡神社の祭神となっているそうです。



ところでここの神社の鳥居の立派なことこの上なしです。神額は満州国の総務長官であった駒井徳三氏による揮毫のもので、鳥居を裏に廻ると寄贈者はこの徳三氏と、兄弟なのかもう一人の駒井の名前が見えます。
そしてもう一方の柱の方を見てみると、西江?木戸石孫と読めます。びわ湖バレイの大津よりに八屋戸という集落があり、そこには以前石屋さんが何軒かありました。良質の花崗岩が産出したようですが、近年石が採れなくなったのか石屋さんも減ったらしい。でこの鳥居は西江州の木戸村の石孫さんでもって、製作されたものではないかと私は推測するのですが。だとしたらこのとてつもない大きな鳥居を、対岸の志賀町からどうやってここまで運んだのでしょうか。



安羅神社から印岐志呂神社へと道案内をしました。この印岐志呂は元県社なのですが拝殿と本殿の立派なこと。市の指定文化財止まりなのですが、これは度々の戦火で焼け落ちて、今の建物は明治初期の建築物なのだそうです。建物だけをみるのなら市内随一ではないかといつも思っています。

ここから長束町の春日神社に寄って、長束正家の蔵があったと私が勝手に想像している場所を案内して、近くの公園で昼をとることにしました。
一段落してお茶を飲み干すと同行者の一人が、昭和の草津写真集なるものをリュックから差し出しました。この本知っているわ。図書館でみたが滅茶苦茶高いでと言うと、9500円で買ったのだとか。そしてこんな港があったのですかと聞いた。写真見てみると太湖汽船と着物姿の多くの乗客が写っているではないか。お~これは志那の港ではないか。このあと行きましょう行きましょう。


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