江若鉄道と進駐軍
人の記憶って何歳頃から脳に残っているのですかね。個人差があり一概には言えないとは思うのですが、自分の場合だったらかろうじて思いだせるのは4歳ぐらい???。一歳や二歳の時のことはまったく覚えていません。私が五歳の時、幼稚園が出来て某幼稚園の第一期生です。幼稚園時代のことは結構覚えています。海人草飲むのつらかったですよね。マクリと云っていたところもあるようですが、私のところでは海人草でした。海人草知っている人は私より多分、年上だと思いますが。
前置きが長くなりました。14日に今、大津歴史4博物館で開催中の江若鉄道展に行ってきました。私は廃線となる直前まで、大津の高校に通学で利用していましたから展示物には懐かしさがこみあげてきました。今回行った目的の一つにあることが気になっているので、何か参考になることがあればと思ったからです。それはこう云うことなんです。
それは昭和26、7年の頃かと思います。これはあくまで私の想像にすぎないのですが。
母親か父親に連れられて、浜大津から自宅のある湖西の方に向かって江若に乗車したんでしょうな。三井寺下駅を発車した近江今津行の気動車は、こともあろうに普段と違う方に進んでいきます。車窓から見える景色は、今まで見たこともない風景が広がっています。いったいここは何処なんやろう。自分の家のほうには帰れるんだろうか。
そしてしばらくすると
大きな正門の前まで来て気動車は止まりました。正門前にはMと書かれたヘルメットをかぶった黒人兵が、銃を立てに構えてたっていました。怖くて恐ろしくて、そして車内の空気もはり付いていました。
この後どうなったのか?客車と貨車を切り離したんでしょうか、私の記憶から消えてしまっていて分かりません。高校生の時皇子山付近を江若が走行中、時々このことを思いだしました。幼少のとき見たあの記憶は一体なんだったのだろうか?。夢じゃなかったのだろうか。今思えば、その時に親父かおふくろに聞いておけばよかったのにと後悔しています。
そして時も代わり私は某企業にて働くようになりました。ある日50歳位の方が私に話しかけてこられました。〇〇君は何処の出身かね。滋賀県の湖西なんです。ほ~僕といっしゃやんか。それ以来同郷のよしみと云うことで随分可愛がってもらいました。ある日その先輩と懐かしの江若談義をやっていて、私はふと気になっていた例の黒人兵のことを話しました。そしたら君若いのにようそんなこと覚えておったなあ~と感心されました。
先輩曰くには、当時皇子山周辺には駐留軍が滞在していて、物資の輸送で何でも江若が使われていたそうです。三井寺下駅から側線が敷かれていて、一日に一本混合列車(旅客車と貨物車が連結されたもの)が進駐軍兵舎の方に入っていったとのことでした。これを聞いて本当私は嬉しかったです。なぜなら夢じゃなかって覚えていたことが何よりうれしかったものです。
ただ返す返すも残念なのはここでも詳しいことを聞かなかったことです。あの時の混合列車はどのあたりまで行ってたんやろうか、今の陸上競技場付近?、それとも大津商業のグランドの辺り?。それにレールは今のどこに敷設されていたの?。なぞと疑問は今も残りますが、事実であったことは間違いないようです。
展覧会の会場を出たところに、今回サンライズ社の出版により「江若鉄道の思い出在りし日の沿線風景」という本が出されました。見本が置いてあったので少しだけ立ち読みしたのですが、三井寺下から側線が何本か敷かれていたようなことが書いてありますが、詳しいことは分かっていないようです。今も江若鉄道で勤務されていた人がおられるようなのでたどっていったら分かるかも知れないですね。
昭和30年ころでは皇子山の歴博があるところ辺りには、肌色した建物があって進駐軍さんの家屋だと親父に聞いたことあります。山上町のユースホステルは今もあるのですかね。あの付近は昭和40年ころまであったと思うのですが、今では一軒も見当たりません。
※記憶の部分についてはアンダーラインのみが私の記憶で、後の部分については想像が入っています。
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