江若浜大津駅は国鉄からの借地

吉祥

2015年03月19日 15:49



今、大津歴博で江若鉄道展が開催中です。昭和40年頃の江若鉄道浜大津駅付近のジオラマが展示してありました。展示物等の写真撮影は固く禁じられていますが、ジオラマについては作者の厚意により自由に撮影してくださいとありました。しかしそれにしてもこのジオラマ、本当によくできています。京阪電車側から見た浜大津駅と京阪の浜大津駅です。



こちらの写真は琵琶湖側から見た浜大津駅で、そうそう角にはナショナルの広告塔が建てられていたパチンコ屋がありましたよね。今はドコモだったか携帯のお店に変わっていたっけ。昭和40年頃この塔が台風で倒されて、前の道路をふさぎましたよね。
浜大津駅付近は今でも鮮明に覚えていて、目を閉じても今でも歩けそうです。浜大津駅の待合のこともよく覚えています。物心ついたころよりありましたが、切符の売り場の左上には小浜の蘇洞門観光のペンキ画が掛かっていました。結構大きな絵だったと思います。岩の中を遊覧船が入って行く所の絵でした。子供の頃からその絵は見ていたのですが、蘇洞門が読めなくてね。でもなんで蘇洞門観光を浜大津の駅でされたんですかね。江若で今津まで行ってそこから九里半街道をバスで小浜までということですかね。

待合の左奥には梅田軒がありました。国鉄時代の売店とよく似たイメージでした。おばちゃんとお姉さんが店を切り盛りされていました。狭かったけど何でも置いてあったような気が。待合室は浜からの風で埃が散るのか、いつも散水がしてあって濡れていましたわ。この梅田のおばちゃん水撒きが好きなのか、ようバケツに杓で水すくってまいていました。発車10分前ぐらいに入線してきて改札が始まりました。学校から帰るときは大体16時40分発の気動車に乗っていました。



そうそうこれこれこれが江若鉄道の客車、懐かしいです。だけど高校の時は江若で通ってることいややったね。なんか山猿が舞い降りてきたと思われているんと違うやろうかとね。新聞か何かで見たのですが、湖西は当時関西のチベットと呼ばれていたのですか。今思えば住んでいるいる人は人情味豊かやし景色は風光明媚なところだったんですがね。

ここまでが回顧録ですが以下は調べてもいないのでご参考までで聞いてください。
親父から聞いたのですが浜大津駅長は代々国鉄の方から来ていたらしいです。親父は江若鉄道とは関係ないので、この話も誰かに聞いたのではと思ってはいるのですが。廃線となる数年前、初めて江若生え抜きの駅長さんが誕生したとか云うてました。そう云えば今回の催しの中で元江若の社員であったという方が思い出の中に、浜大津近辺の土地は国鉄財産であったとか書かれていました。なぜ浜大津駅付近の土地は国鉄の用地だったのですかね。

あくまて゛想像ですが明治に入って敦賀~長浜間に鉄道が敷設されます。そして大聖寺藩資本と播州資本によって長浜~浜大津間に日本最初鉄道連絡船が就航されました。これが太湖汽船らしいですが、よく言う琵琶湖汽船の前身の太湖汽船はこの会社ではないそうです。なんでも太湖汽船は二つあったらしいですからね。浜大津港に着いた荷物は馬場駅から京都、大阪に運ばれていたそうなので、このことからして浜大津周辺は明治以来国鉄財産のままになっていたのかも知れませんね。

それとこれも親父が云ってたのですが、浜大津は元々は始発駅じゃなかったようです。始発駅は三井寺下駅で三井寺下~浜大津間は後々に敷設されたらしいです。道理で三井寺下~浜大津間は民家の軒下のような所を通っていましたわ。ご無理お願いして敷地の一部を分けてもらったりしたのかも知れません。詳しく江若の歴史調べたら面白いでしょうな。


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