日吉大社の源流と山王祭

吉祥

2007年06月24日 09:48

昨日ですが大津市歴史博物館であった土曜に行ってきました。
今回のテーマは「日吉大社の源流と山王祭」下鴨神社の嵯峨井建先生が講師でした。先生は現在は下鴨神社ですが20年前は日吉大社の神主さんでした。

山王祭は日吉にいるときは祭りの時は神主でしたから、中にはいっていると廻りで何をやっているのかさっぱり分からなかったが、下鴨に行ってから外から祭りを見ることができるようになり、いろんな方の話を聞けるようになりようやく少しわかるようになったとのことでした。

東本宮の御神体は八王山ではない
「大山咋神、亦名は山末之大主神、此の神は近淡海国の日枝の山に座す。亦葛野の松尾に座す鳴鏑に成りませる神なり。」これは日本最古の書物古事記にのっている一節である。
和銅5年には地主神社として山岳信仰はすでにあった。私も最近聞きましたか゜、嵯峨井講師によると一般的に八王寺にある金大巌が神が宿る巌といわれているが、そうではなくて東本宮の神の山とは西塔と横川の中間あたりにある鯛釣岩が本来の日枝の山に座す神であるとの説明がありました。これは回峰行者の手文でもあきらかなことだそうです。

西本宮の源は何処か
欽明天皇の時大和の大三輪社より垂迹唐埼に住んでいた宇志丸のところに渡御したとある。宇志丸は桂の木でもって神体をつくり社殿を建てたこのことは、「耀天記」=鎌倉時代の書物によってあきらなことである。ここに大己貴命を奉った。

山王祭
山王祭は一ヶ月以上の長期にわたる祭りで東本宮、西本宮系それぞれの神事があります。それは日吉の神が此の地の鎮まった時を神輿とヒモロギで表現されており、牛の神事は大山咋命の出現を、唐埼の神事は大己貴命の出現を当初儀礼として再現しています。この祭りき神仏習合によりおこなわれており、明治までは沢山の人々によって運営されていました。神輿のかづぎ手は地元坂本は当然として雄琴、八瀬、大原からも山を越えて参加されていました。明治に入り廃仏稀釈により一時期天台による五色奉幣は中断しましたが、現在では復活しています。

日吉の祭りを理解するには、5年とも7年とも言います。今年はもう終わってしまいましたが、皆さん是非とも来年はこの山王祭すべての神事を追ってみてください。祭りは理屈じゃありません見てみること、こうやって話を聞くのもいいですがとにかく見てくださいと言うしめくりで終わりました。講義内容を全部ここで書くことは出来ませんがほんの一部紹介しました。


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