マイマイ講座へ

今日はMyライフMyくさつ講座に行って来ました。今回のテーマは「自然観察入門」で野草を矢原功さん、野鳥を辻勝彦さんに説明していただきなごみの郷から葉山川沿いに琵琶湖まで歩いてきました。
現地観察の前にお二人から野草、野鳥の基本的な見方を教えていただきました。教室においてあったのですがいつかテクテクさんのブログでも紹介されていましたが、「カラスビシャク」で半夏ともいうそうです。半夏生という野草があって後ほど琵琶湖岸で説明しますということでした。

歩きながら道中でこの草はなんと言う名前ですかの質問に間髪をいれず答えられたのには驚きでありました。

琵琶湖岸で見た半夏生(ハンゲショウ)でカタシログサ(片白草)が学名のようです。半夏とは24節気のヒトツ夏至と小暑の中間あたりでこの名前があるようです。7月2日頃が真ん中に当るのでしょうか。

葉山川を往復してきて出発地の「なごみの郷」に帰ってきて、絵が飾っていたので遠目でみると見たような絵。近づいてみると滋賀咲くの島田美智子さんの絵がかけられていました。
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タグ :草津
2008年06月28日 Posted by 吉祥 at 19:08 │Comments(4) │TrackBack(0) │土曜講座
守山図書館で伊能忠敬の講座

今日守山図書館に「伊能忠敬と近江」と題する、文学講座に行ってきました。この講座は守山の読書連絡協議会と守山市立図書館との共催で行われたものです。2時からと言うことでしたが少し早めに行きました、定刻の時間になると部屋がいっぱいでおよそ80人は入っていたでしょうか。主催者側も予測してなかったのか資料が足りなくなって急遽増刷しますとのことでした。
私は初めての参加でしたが前回は小堀遠州の講座だったようです。
ところで講座は講師として長浜歴史博物館の太田浩司先生の講義で始まりました。伊能忠敬は中学生の頃でしょうか社会の勉強で、日本地図を作った人と習った記憶があります。伊能忠敬は江戸時代の地理学者(1745~1818)でそれも後年になってからの話で、18才のとき千葉の佐原の豪家に婿養子と入りましたが既に衰退していたため、造酒業として家運の恢復に努めました。そして49才の時家督を実子に譲り隠居の身となりました。
しかしここからが忠敬のすごいところで、その後江戸の天文学者の高橋至時の門下生となりました。ここで緯度一度の正確な距離を知りたくて江戸の測量を企てましたが距離が身近すぎてかないませんでした。そこで当時全く未開の地であった蝦夷地の測量を幕府に願いでて、私費での測量を始めたのが手始めであります。文字通り忠敬は今で言う生涯学習のさきがけと言う人物であったようです。
その後17年の月日を得て日本沿岸を梵天と縄を片手に実測を重ね、大日本沿海輿地全図を完成されました。この測量に関して1次から8次まで全国を歩いて測量していますが、文化2年と文化3にはこの近江の測量にも携わっており、草津、守山にも投宿したことが日記に記されています。文化2年8月15日には草津市の北山田で測量がおこなわれており、木内石亭本人と出会い珍石、奇石をみたとの記述が残っていると説明があり驚きました。このときの第5次の測量で得た結果をもとに琵琶湖の特別出版図が出されています。
2008年06月25日 Posted by 吉祥 at 20:23 │Comments(7) │TrackBack(0) │土曜講座
MyライフMyくさつ
日曜日にMyライフMyくさつ講座に行ってきました。今年が第3回目だそうで、これは団塊世代
をターゲットにした講座ですがこの世代を超えた人、あるいはやがて退職を迎える方も大歓迎ということで申し込んでいました。
「くさつ的スローライフのススメ」と題して、ゆったり、のんびり、じっくりと草津で自分探しを始めてみませんかと言う内容のようであります。
歴史あり、料理あり、自然の探索あり、そして市役所の中も見学しましょうとなんでもありの講座で、全8回で一度だけの参加も可能で一回につき500円の参加費(材料代は除く)が要ります。基本は日曜開催で会場、講師の都合により平日開催もあるとのことですが、日程との折り合いがつけば全講座を受講するつもりでいます。
当日初回の講座ということで草津宿街道交流館・副館長八杉 淳先生の「草津宿を支えた村・人・制度」と題して講話がありました。3月だったでしょうか同内容の話を近江歴史回廊大学で聞いたばかりでしたが、一部重複した話もありましたが今回は受講生が草津市民ということでより地域性に富んだ内容でありました。
宿場町とは伝馬制と旅籠があることが必須で当初は36人36疋の伝馬が義務づけられ、その後には100人100疋まで拡大された。この伝馬制のもとでは問屋場が置かれ問屋場では幕府の書状や荷物の継立てが行われた。しかし参勤交代の大名行列となると100人100疋では足りず、周辺の村々に助郷として人足と馬の調達が割り当てられてしまった。草津市では現在の野路、野村、青地あたりが指定されのちにはこれだけでは足りず山田、下笠あたりまで増助郷として指定された。農民にとってはこの助郷は百姓の傍らの労役と馬の貸し出しであり、負担を強いられることになった。
今回の講義では、伝馬制度と助郷に特にこと細かな説明をしていただきました。この問屋場は草津宿では4丁目にあったそうです。
次回は葉山川堤防を歩き野鳥と草花
探しです。とにかく野鳥も草花も名前がしらないものですから今から楽しみな内容であります。
をターゲットにした講座ですがこの世代を超えた人、あるいはやがて退職を迎える方も大歓迎ということで申し込んでいました。
「くさつ的スローライフのススメ」と題して、ゆったり、のんびり、じっくりと草津で自分探しを始めてみませんかと言う内容のようであります。
歴史あり、料理あり、自然の探索あり、そして市役所の中も見学しましょうとなんでもありの講座で、全8回で一度だけの参加も可能で一回につき500円の参加費(材料代は除く)が要ります。基本は日曜開催で会場、講師の都合により平日開催もあるとのことですが、日程との折り合いがつけば全講座を受講するつもりでいます。
当日初回の講座ということで草津宿街道交流館・副館長八杉 淳先生の「草津宿を支えた村・人・制度」と題して講話がありました。3月だったでしょうか同内容の話を近江歴史回廊大学で聞いたばかりでしたが、一部重複した話もありましたが今回は受講生が草津市民ということでより地域性に富んだ内容でありました。
宿場町とは伝馬制と旅籠があることが必須で当初は36人36疋の伝馬が義務づけられ、その後には100人100疋まで拡大された。この伝馬制のもとでは問屋場が置かれ問屋場では幕府の書状や荷物の継立てが行われた。しかし参勤交代の大名行列となると100人100疋では足りず、周辺の村々に助郷として人足と馬の調達が割り当てられてしまった。草津市では現在の野路、野村、青地あたりが指定されのちにはこれだけでは足りず山田、下笠あたりまで増助郷として指定された。農民にとってはこの助郷は百姓の傍らの労役と馬の貸し出しであり、負担を強いられることになった。

今回の講義では、伝馬制度と助郷に特にこと細かな説明をしていただきました。この問屋場は草津宿では4丁目にあったそうです。
次回は葉山川堤防を歩き野鳥と草花
探しです。とにかく野鳥も草花も名前がしらないものですから今から楽しみな内容であります。タグ :草津
2008年05月19日 Posted by 吉祥 at 11:15 │Comments(4) │TrackBack(0) │土曜講座
大津歴博土曜講座

大津市歴史博物館の土曜講座に行ってきました、「近江の仏像14 五大明王」で講師は独立行政法人国立文化財機構 東京文化財研究所の津田徹英氏でした。それにしても長い名称ですね一回ではおぼえられないどんな名刺をお持ちなのか、冒頭明王ということで御不動さん不動明王をやりましょうかと言ったら、すでにやりましたからという歴博の返事でしたので、今日は五大明王を取り上げますとのことでした。この土曜講座今回で第383回目で近江の仏像もすでに14回目だそうです、私は今日が初めての参加なのにため息がでました。不動明王やってほしかったなあー、知っている明王といえば不動明王と愛染明王ぐらいしか知らないものですから。それに先般の星野圓道師の堂入りの話なんかもでるかもと淡い期待はしておった
のですが残念なことでした。

明王とは如来の教えに従わない者を憤怒相の恐ろしい姿で現れ、教化しょうとする密教仏教の仏の総称です言うことを聞かない衆生(人間および生きるもの)は放っておいていいのですが、如来 菩薩は慈悲の心をもっいますからそれを救おうとします。よって怖い異形の姿に変身しておられるのだそうです。

五大明王とは不動明王、降三世明王、軍茶利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王(台密では鳥枢沙摩明王)のことを言います、また真言密教と天台密教の違いから明王においても若干の違いか゜あるようです。これは先生の話によると円珍と空海(この二人は叔父、甥の関係にあたる)のお経の解釈の違いがあるようです。またお経を見てとって製作するものですから、仏師の意向というよりお坊さんの想いの違いもあるようです。

不動明王は人間にどちらかというと近い姿、二足二手であるが他の4仏多面、多臂、多足であります。また蛇を巻きつかせているものも多種多様のようです、かなり専門的な講義内容で先生によると簡単に説明しますとのことでしたが、正直疲れました。

ところで当日、同博物館で仏像彫刻展が開催されていました。仏像の画像がそうです(土曜講座とはなんら関係はありません)ちょっと覗いてみました、私はプロの仏師の展覧会と思いきや素人さんのそれも趣味で仏像を彫っておられる方の発表会と聞いてびっくりしました。写真みてどう思われます世の中には器用な方がおられるのですね、仏像の展示は写真撮影は禁止ですがお許しを得たらOKという事でデジカメに納めました、不動明王と聖観音を撮らせていただきました。
博物館を出てみると大津商業高校を眼下にあまりにも、もみじがきれいなもので一枚写しました。
2007年12月03日 Posted by 吉祥 at 11:38 │Comments(4) │TrackBack(0) │土曜講座
戦国の大津

大津歴史博物館の企画展「天下統一の夢、坂本城、大津城、膳所城」に行って来た。坂本城は元亀二年の山門焼き討ちの後に、大津城は本能寺の変のあと山崎にて秀吉が光秀を破った後に、そして膳所城は関が原の戦い後に信長が築いたものです。膳所城は別として坂本、大津についてはその全容が明らかになっていないようであります。いずれも水城と言われ湖面に映るその姿はさぞかし美しい姿であったであろうと思われます。個人的には膳所城に興味ありで展示物興味深く見ることが出来ました。
2007年10月09日 Posted by 吉祥 at 16:31 │Comments(2) │TrackBack(0) │土曜講座
大津歴博土曜講座
大津歴史博物館の土曜講座に行ってきました。
テーマは街道と宿場の資料を読む=大津宿から草津宿へ=
県内の東海道の宿として大津、草津、石部、水口、土山とありますか゛、大津には資料がほとんど残っていないとのことでした。
東海道五十三次として宿の体裁がととのったのは参勤交代が確立してからでありました。この宿場の働きは1、休伯として2、人馬継立のための二点でした。
1、当時旅人は宿場以外での宿泊は禁止されていました。しかし宿場~宿場の間「間の宿」「立場」で泊まる人もありました。というのは間の宿は宿場で泊まるより安くついたためです。宿場の本陣は大名が泊まるところであり、一般の人は旅籠で泊まることしか許されませんでした。草津、大津ともに旅籠は70軒前後あり強引な客引きがおこなわれいました。
参勤交代の諸事情もおもしろおかしく説明がありました。
テーマは街道と宿場の資料を読む=大津宿から草津宿へ=
県内の東海道の宿として大津、草津、石部、水口、土山とありますか゛、大津には資料がほとんど残っていないとのことでした。
東海道五十三次として宿の体裁がととのったのは参勤交代が確立してからでありました。この宿場の働きは1、休伯として2、人馬継立のための二点でした。
1、当時旅人は宿場以外での宿泊は禁止されていました。しかし宿場~宿場の間「間の宿」「立場」で泊まる人もありました。というのは間の宿は宿場で泊まるより安くついたためです。宿場の本陣は大名が泊まるところであり、一般の人は旅籠で泊まることしか許されませんでした。草津、大津ともに旅籠は70軒前後あり強引な客引きがおこなわれいました。
参勤交代の諸事情もおもしろおかしく説明がありました。



