2008年06月21日
志那中港

志那中港に行ってきました。ここから見る比叡山が私は最も美しいと思っています。今日は残念ながら靄がかかっていてよく見えませんでした。写真は旧志那中港にある元太湖汽船の切符売り場です、太湖汽船の切符売り場と乗船場が残っているのも数少なくなってきたのではないでしょうか。太湖汽船については拙文の過去ブログ
太湖汽船を見てください

旧志那中港です、終戦直後までは大賑わいだったと聞いています。

2006年11月05日
太湖汽船に思いをはせて

穴村の墨灸さんをたずねてみた、現穴村診療所のHPによると、昭和初期にはこの墨灸をうけるのに多い日では、一日1000人からのお客さんで賑わっていたとか。http://www.anamura.or.jp/monmon.htmそしてここにくるのに太湖汽船志那港が利用されていた。http://lycaste621.shiga-saku.net/e5315.htmlもんもんを終えた子供たちはここ文栄堂さんhttp://www.gaido.jp/machikado/2004/10/22dango/でそうもくを親に買ってもらうのであった。
穴村の細い道を入っていくと診療所がありました。今日は診療所休みのようでしまっていましたが、例の樹齢400年の老松みえました。写真右側の松が写っているところが診療所で左側に少し写っているのが吉田文栄堂さんです。いまもそうもく販売されているそうですが、何分手作りのため限定販売とか、木曜、土曜、日曜は休みと張り紙がありました。しかしこの路地裏道に昭和初期の栄華をかいま見ることが出来ました。
2006年10月16日
まぼろしの山田港駅
明治22年7月鉄道省による湖東線が開通、時同じく明治22年12月関西ではじめての私鉄、関西鉄道(草津と四日市を結ぶために設立)が草津~三雲間を開通させた。その後明治23年3月三雲~柘植間が完成したことにより、関西鉄道草津駅が省線草津駅との連絡駅となった。
ここで関西鉄道は、省線草津駅と連絡するだけでなく、自らも山田港まで路線を延長し山田港~大津を太湖汽船に大津から京都まで疎水によって京都にいたるという計画がなされた。このルートの方が運賃が安くつくという計算であった。しかしこの計画は省線と関西鉄道が立体化されなくてはならず、日の目を見ることはなかった。
もしこの計画が実行されていたならば、今のJR草津線は、柘植~山田港間となっていたのではないか、何か明治のロマンを感じるものである。
ここで関西鉄道は、省線草津駅と連絡するだけでなく、自らも山田港まで路線を延長し山田港~大津を太湖汽船に大津から京都まで疎水によって京都にいたるという計画がなされた。このルートの方が運賃が安くつくという計算であった。しかしこの計画は省線と関西鉄道が立体化されなくてはならず、日の目を見ることはなかった。
もしこの計画が実行されていたならば、今のJR草津線は、柘植~山田港間となっていたのではないか、何か明治のロマンを感じるものである。
2006年10月16日
矢橋の帰帆
近江八景の矢橋の帰帆として名高い矢橋港は、江戸時代まで、矢橋港~大津の航路があった。この間陸路で行くと16kmであるのが、この航路を利用すれば5kmと近道であるため大いに利用された。しかしこれも前述の蒸気船が運航されるまでのことであった。
明治に入ると大津~山田港がこれにとって変わっていったのと同時に矢橋港自体も衰退してゆくのであるが、ここで面白い記事を見つけた。
明治に入ると大津~山田港がこれにとって変わっていったのと同時に矢橋港自体も衰退してゆくのであるが、ここで面白い記事を見つけた。
2006年10月13日
太湖汽船に思いをはせて(その歴史 3)
この航安組の出現により、三汀社、江州丸会社と相次いで誕生し再び各社間で競争が始まった。おりしも明治13年に鉄道局が京都~浜大津間に鉄道が敷設され、また長浜~敦賀間に鉄道鉄道が計画された。このことにより大津~長浜間は、湖上交通を利用する計画に相成ったことにより、鉄道連絡船としての使命が甚大となった。そこで県は明治15年大阪の藤田伝三郎を頭取とした、資本金50万円の合併会社が創立され社名は太湖汽船となった。
特に第一太湖丸、第二太湖丸はわが国における最初の鋼鉄船で、大津~長浜間は日本で最初の鉄道連絡船であった。しかしこの連絡船も明治22年湖東線の開通により、僅か5年でもって廃止となり太湖汽船は、観光船ならびに近距離船と変貌していくのであった。
上記記述のとおり明治22年で連絡船としての使命を終えるが湖上交通の足としての使命は大正、昭和へと受け継がれていったようである。
参考図書 滋賀100年 毎日新聞社
特に第一太湖丸、第二太湖丸はわが国における最初の鋼鉄船で、大津~長浜間は日本で最初の鉄道連絡船であった。しかしこの連絡船も明治22年湖東線の開通により、僅か5年でもって廃止となり太湖汽船は、観光船ならびに近距離船と変貌していくのであった。
上記記述のとおり明治22年で連絡船としての使命を終えるが湖上交通の足としての使命は大正、昭和へと受け継がれていったようである。
参考図書 滋賀100年 毎日新聞社