2024年02月03日

湖底遺跡の事

琵琶湖の湖底には1000ヶ所もの遺跡が存在すると云う。その中の一つに高島市の永田と云う町に、三ツ矢千軒遺跡が湖底にあるらしい。この遺跡だが一説に今から400年ほど前に起こった大地震によって、村ともども地すべりでもって琵琶湖に沈んでしまったのだと云う。

琵琶湖の西側高島から大津にかけて琵琶湖西岸断層がはしっていて、過去に何度か大きな地震がいったそうだが琵琶湖の西側は水深が深くなっている。昨年の夏に近江舞子水泳場溺れて亡くなった人がいたが、子供の頃舞子の水泳場は水は綺麗だがすり鉢になっていて急に深くなるから気を付けんとだめやと親がよく言っていた。舞子までは少し離れているのと、それと他の理由により舞子水泳場は禁止されていたので泳いだことはなかった。

何年か前、琵琶湖博物館の講座があって参加したのだが、その折琵琶湖の水位がもし5m下がったらどうなるかと画像説明があった。5m下がると南湖の堅田~雄琴~柳ケ崎大津にかけて琵琶湖が川のようになってしまい、東側草津方面は陸地になってしまうとのことであった。詳しい説明は全て忘れてしまったが、断層でもって陥没したのかも知れない。
琵琶湖は隆起と陥没によってできた湖らしいから、400万年の間に何度も大地震が起こったのかも知れない。その確率は2000年から5000年に一度だとか云っていた。今回の能登地震は2000年に(4000年という報道もあり)一度と云うではないか。

数年前の事だが文化財の学芸員さんにこの三ツ矢千軒について立ち話ではあるが聞いたことがある。なぜかと云うと県立大学の出身だと聞かされたからである。この遺跡は今は退任されたかも知れないが、県立大学の林博道教授が調査されていて調査結果はサンライズ出版から本が出されていたのを知っていたからである。

聞きたかったのは、本当に地震でもって集落が琵琶湖に埋没してしまったって本当なのか聞きたかった。自分はそんな馬鹿なことあるわけないやろうと思っていた。どう考えても、想像しても集落が琵琶湖にはまってしまうなんてあり得ん。
そしたらこの学芸さん、僕もこの遺跡調査に参加してましたやん。とれって言われて小型船舶操縦士の免許と潜水士の免許とりましたなんて言ってた。船で沖合に出るから小型船舶操縦士の免許はいるかも知れないが潜水士の免許って、あの時彼はその件についてどう言ったか忘れてしまった。

それで遺跡の真偽のほどはどうなんって聞いたら、どうなんですかねと肯定も、否定もしなかった。彼によるとボートで少し沖に出るとボート上から、石垣なんかが見えるそうです。立ち話なので何一つ聞けなかったが、自分は今年の元旦まで地震で集落が琵琶湖に陥没したなんて絶対に信じていなかった。

そして今年の正月、この大惨事。輪島漁港の海岸線では海が4mしたと云う。能登半島は逆断層とか云うらしくて、隆起、持ちあがるらしいがそのメカはよくわからんです。
いずれにせよ、今回の地震でもって集落が消えてしまった件だが、地震で地すべりによって琵琶湖に埋没したとの林先生の説は本当らしく思えてきた。
三ツ矢千軒以外にも米原の筑摩沖、長浜沖にもこういった遺跡があるらしいですよ。  


Posted by 吉祥 at 17:02Comments(0)琵琶湖

2021年01月09日

琵琶湖が凍てついた



娘が買い物に来たからと云って自宅に寄った。湖岸がすっごいことになっているから見てきたらわ~とスマホの画像を見せた。波で打ち上げられた湖水が凍ってしまったのだろう。寒いしあまり気がのらなかったのであるが、とりあえず百聞は一見に如かず。こりゃすげぇ~は初めて見た。












  


Posted by 吉祥 at 16:49Comments(0)琵琶湖

2020年11月05日

旧長浜駅



先日彦根の親戚に用事があり済ましたあと長浜まで足を延ばした。目的は3度目となる旧長浜駅をもう一度見たかったから。長浜は祖父母ゆかりの地で、私にとっては自分のルーツ探しの街なんです。祖父母と我が家は別居だったもので、祖母の事は全く知らないし祖父は一、二度幼少の時に出会った位でこちらもよく知らない。だけどなぜか長浜の地に行くと祖父母に出会えるような気がするものだから不思議ではある。
館内に入にパネルには太湖汽船の文字が目に付く。




慶雲館横に建っていた「旧長浜港跡」の石碑

昔、故郷の近くの湖岸に崩れかかった石積みと、丸太の杭が数本湖面から突き出ていた。そこは神輿の御旅所だったが太湖汽船の船着き場と呼ばれていた。湖南の方にすむようになってから、何十年ぶりにこの太湖汽船の言葉を聞くようになった。太湖汽船のことは気にはなっていたが、今のようにインターネットなんてない時だったから知るすべもなくそのままになっていた。パソコンが家庭にも入るようになってきて、そのままになっていた太湖汽船の事を図書館で調べると同時に湖上交通の事が気になりだした。少し分かってくると琵琶湖の歴史に興味がわく様になった。


はり丸のハンドルやて、はり丸って知ってはりますか。はり丸は漢字やったと思うんやけど。那覇の覇にリは璃と違ったかなぁ~。
はり丸は琵琶湖汽船の船籍で、琵琶湖汽船の先代が太湖汽船やけど、長浜鉄道記念館のパネルで紹介されてる太湖汽船とは別会社。

高校生の時は江若鉄道に乗って大津まで通学していた。中学生の時、親父が江若の終点の浜大津駅は国鉄のもんやから駅長さんは国鉄の人やと云っていた。江若の終点は元は三井寺下駅が終点やとも云っていた。中学生の頃はそんなことどうでも良いことだし、調べるすべもなかったのでそのままになっていた。あれから数十年経ってあるきっかけで、江若鉄道の本社があったところは草津にある芦浦観音寺のお屋敷であったと知った。そういえば浜大津駅と違って、機関区に停留線、ガソリンの給油線もあって広い敷地やったなぁ。

昭和43年代前半の大津駅の様子知ってはりますか。滋賀県も県外出身者が増えてきてこう云った昔話が通用しなくなった。
若い時滋賀の田舎っぺに住んでいてもしょうがないし、東京か大阪へと考えたのだけど東京は敷居が高いので大阪にした。何か月ぶりかに滋賀に帰ってきて大津駅に降りた。高校生の時は県庁の所在地駅やのに、淋しいなとかしょぼいな~とか思わんかった。大阪から帰ってきて大津駅に降りたらなんもないがな。覚えているのはどさん子ラーメンがあって隣はマンモスのパチンコ屋やった。競輪かボートの開催日だったのか、白、赤の京阪の無料バスが止まっていて、おばちゃんが予想紙抱えておったわ。とりあえず腹がへったので飯でもと思ったが食堂すらなかったがなぁ~。ただ一軒まんぷく食堂と云うのがあって親子丼を食った。
なんでんなに淋しいのか、知るすべもないし聞いたところで何の得にもならないのでそのままになっていた。ブログを始めた頃近江の歴史に少し興味を持つようになって、いつしか自然に大津の町の事を知るようになった。大津の町の変遷聞いてそう云う事だったのか?。
大津には大津百町と云って多くの町名があったらしい。大工町、船頭町、堅田町、御蔵町、、、、、古絵図見ると浜大津付近から同心円に広がっている。

明治の長浜駅と今は無い浜大津駅知れば知るほど面白い。

琵琶湖の事書けばきりがないないのでやめとくが、今回の長浜鉄道記念館でもポスターを見たが「湖辺の祈りと暮らし」が日本遺産のテーマだとか。  


Posted by 吉祥 at 11:33Comments(2)琵琶湖

2020年03月21日

大津百艘船



今、大津歴史博物館で開催中の大津百艘船の企画展に行ってきた。これは豊臣から徳川にかけて大津港に出入りする船仲間の組織、大津百艘船に関する資料1237点が一昨年重要文化財の指定を受けたことにより企画された展覧会である。

滋賀と云えば琵琶湖。
古代から近江の国は琵琶湖の水運に深くかかわってきた。古くは平清盛が日本海の物資を京の都に運送するのに、敦賀~塩津間を掘削して琵琶湖を利用した大運河を計画した史料も残っているらしい。江戸中期に河村瑞賢が西回り航路を立ち上げるまで、敦賀から近江塩津まで陸送し塩津から坂本、大津に舟運でもって運びこまれた事により大津の町は当時では大都会とは言えないにしろ発展していたことは明らかである。

滋賀県文化財保護協会が数年前からバイパス建設に伴い、近江塩津港の遺跡発掘調査を実施された結果、平安時代の近江塩津港の遺構が発見されたとのニュースもあった。琵琶湖の湊(港)についての研究が全く進んでいない中でのこのニュースは、琵琶湖の湊についての本格的な発掘は初めてのことであると、昨年瀬田の文化財保護協会であった塩津遺跡成果展示会で知った。

中世の頃までは塩津~大津に陸揚げされる物資は、どちらかと云えば坂本港に陸揚げされる荷物の方が多かったと聞いたことがある。坂本~志賀越(山中越)~京都、そのため信長はその流動を監視するため光秀に坂本城を築かし、森可成を宇佐城主にしたと聞いたことがある。



展覧会場に入ると140点からなる資料が展示してあった。その殆どが古文書、高札関係なので解説しているとは我が能力では分かりづらかった。秀吉が大津百艘船組織を作ったのだが、その管理を任されたのが草津市にある芦浦観音寺です。芦浦観音寺所蔵の資料も何点か展示されていて、これらは興味湧くところなので注意深く目を通しました。



大津百艘船万留帳と書かれた左に◎があるがこれは重要文化財であるとの印。〇が県指定文化財で△は市町村指定の文化財なんた゜そうです。もう一つ、NO99と書かれた左に篆刻印が押していますが、これは写真撮影可能ですと云うことです。因みに撮影禁止の資料もあってこれには赤でカメラマークに✖がしてありました。画像の資料はよって撮影可能なんだけど、文書は読めないのであえて写さんかった。

芦浦観音寺にはこれまで一般公開で何度か訪れたのだが、本堂の前に納豆蔵と云う土蔵が今も現存しています。この土蔵で江戸初期から納豆作りが行われていたようで、毎年歳暮に納豆を50捉百艘船に送られていたらしい。だけど50捉では少ないと思うのだが、当時では納豆は貴重だったのかも知れない。



明治初期の大津港なんだそうです。絵葉書だそうですが私がこの日一番記憶に残った資料の1枚です。この場所に初代の官営大津驛がありました。明治15年頃には太湖汽船の船着場で、長浜~大津を結ぶ日本初の鉄道連絡船の港でもあります。




  


Posted by 吉祥 at 09:33Comments(4)琵琶湖

2020年02月23日

エッ、烏丸半島は埋め立て地



県民の方なら誰しも一度は訪れたことがあると思う琵琶湖博物館がある烏丸半島だが、先日ある方と立ち話をしていたらこの烏丸半島のことが話題になった。烏丸半島は埋め立て地だからに、思わずエッと唸ってしまった。

烏丸半島は元々は砂嘴で出来た陸地で平仮名の「く」のような陸地であったそうだ。砂嘴とは天橋立を思って頂ければよいと思うが、海岸、あるいは湖岸に波及び風によって砂が集まってできたものだ。明治初期の烏丸半島の古絵図が残っているのをネットで見つけた。古絵図を見るとかぎ型に曲がった細い陸地が確認できる。この絵図によると現在琵琶湖汽船の発着場、毎年開催されるイナズマロック行われる広場、それと琵琶湖博物館がある細長いところが本来の烏丸半島であったようだ。

現在の中央部分のリゾート施設が出来るとか、廃案になったとか話題になっている所は埋め立て地らしい。草津市立のみずの森博物館のある所も埋め立て地だと思う。

10年ほど前烏丸半島の入口あたりにある下物観音堂に行ったとき、地域の信者さんに烏丸半島には田んぼがあって舟に乗って昔は行っていたと聞いたことがある。このことも調べると七町歩からの田んぼがあったみたい。10年前のブログです。



昨日下物観音と烏丸半島に行ってきた。
【下物観音堂】
  
サムネイルはクリックして見てください。

【琵琶湖博物館前から見た中央部】

おそらくここは埋め立て地でしょう。

【この辺りまでが砂嘴の先端】


【みずの森博物館】

ここも埋め立て地だと思う。



  


Posted by 吉祥 at 09:30Comments(4)琵琶湖晴耕雨読日記
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