2018年01月21日

常盤の湖上交通史

昨日はUDCBKによるセミナーに行ってきました。ところでこのUDCBKって何するところ?。
アーバンデザインセンター、びわこくさつの略なんだそうです。市役所内の組織に草津未来研究所というのがあって、UDCBKは役所外にある産学公民共同の組織?と一応理解しているつもりなのですがイマイチ分かっていません。

今回UDCBKが琵琶湖の湖上交通の歴史と、草津にあった港の話がテーマだと知り参加しました。びわ湖の畔で育った者なので湖上交通とか太湖汽船がと聞くとわくわくしてしまいます。この日あったセミナーの内容は常盤地区の話で、常盤読書会グループ松葉会による志那及び志那中港の話と、草津交流館の学芸員さんの講話そして参加者によるワークショップ3点でした。

いずれの話も穴村のもんや墨灸さんと、太湖汽船の船着き場であった志那中港の話が中心でした。もんやさんの事、そして志那中港については過去にこのブログにも何度か記事ネタにしていたのでよく知っている中味でした。


【画像は志那中港にあった太湖汽船の元券売所の建物です。何年か前に現地に赴いて写したもので直近のものではありません。】

カテゴリーの太湖汽船を選択して見ていただくと、今回のテーマの志那中港の過去ブログが出てきますのでそちらを参照してください。

次回は矢橋港の話で矢橋湖帆の会の代表の方が講演していただく予定になっており次回も参加するつもりです。

  


Posted by 吉祥 at 08:17Comments(2)琵琶湖

2018年01月06日

琵琶湖汽船営業開始130周年



表題の通り琵琶湖汽船が営業130年なんだそうです。明治19年の12月に設立された湖南汽船の設立日が、そのまま琵琶湖汽船の創立日となっています。琵琶湖汽船の前身は太湖汽船でその前身が湖南汽船、湖南汽船の前身が航安組でその前身が(紺屋ヶ関汽船と山田汽船)。なんとまぁ~複雑な事ですそれもそのはず130年の琵琶湖の湖上交通の歴史があるのですからね。詳しくはこちらの琵琶湖汽船のHPを見てください。

子供の頃琵琶湖の畔で育ったもので、近くには太湖汽船の元船着き場の桟橋が石垣が崩れはしていましたがまだ残っていました。近くを通るとだれかれとなく、ここは昔、太湖汽船の大きな船の乗船場やったんやでとよく耳にしたものでした。また親父の口からも度々太湖汽船の話は出てきたのですが、なにぶんまだ幼少だったもので詳しい話の内容は覚えていません。今思うともっとしっかりと聞いておくべきだったと後悔しきりです。それと小学生の頃、浜辺で遊んでいると夕刻の4時半頃に、琵琶湖汽船の玻璃丸が浜大津に帰港するためえい航していました。当時は時計など持たせてもらえなかったので、この玻璃丸が通ると家に帰る時間の到来で、いずれも懐かしい思い出話です。

明治19年の湖南汽船は正しくは湖南汽船会社でまだ(株)はついていません。その前身の紺屋ヶ関汽船と山田汽船は明治の初期に設立された渡し舟屋さんで、まだ会社組織ではなかったみたいです。厳密に云えば琵琶湖汽船創立はここまでさかのぼっても良いのではと思っています。
で、紺屋ヶ関汽船は大津の米問屋の谷口嘉助と云う方が、現在の中央小学校の辺りで関、港を浚渫されました。一方山田汽船は山田の杉江善右衛門と云う大地主さんが山寺川を浚渫して船着き場を開港されました。当初はそれぞれ個人運営の渡し舟屋さんだったのですが、のちに二人が合併して湖南汽船と云う会社をたちあげられました。のちに(株)となって谷口さんが社長で杉江さんが専務となられます。なので琵琶湖汽船の発祥の地と云えば大津の島が関付近と草津の元山田と云うことになると思うのですがね。





もう一つ面白い話は明治、大正期は鉄道運賃が高かったそうで、草津から大津に行くには船賃が安い航路が賑わっていたそうです。そこで当時まだ私鉄であった関西鉄道(今の草津線)が、草津駅~山田港までの線路を計画したそうです。草津~野村町を通って笠縫から山田港です。結局この計画は種々問題があって建設されることはなかったのですが、もし出来ていたら今はどうなっていますかね。山田港驛見たかったですわね。他にも面白い話がありますがそれはまたの機会にということで、お後がよろしいようで。



  


Posted by 吉祥 at 10:03Comments(5)琵琶湖

2017年06月20日

明日から本格的に梅雨だとか

梅雨入り宣言は早かったのですが、宣言以来まとまった雨が降らずじまいで何もかもカラカラです。
天気予報によると明日から本格的な梅雨となるそうで、大雨に注意だとか。

朝から湖西の方に行ってきました。湖岸には波もなくて穏やかな水面でした。







琵琶湖の橋板良いでしょう(*^_^*)。

  


Posted by 吉祥 at 18:16Comments(2)琵琶湖晴耕雨読日記

2017年06月04日

これが琵琶湖の橋板



昨日は和邇平和堂のギャラリーで開催されている二人展に行ってきました。作家の一人が少しだけの知り合いの奥さんで、是非とも観てほしいと案内をうけていたからです。平和堂に行く前に、前回のブログで書いていた橋板を探しに和邇の湖岸に寄りました。橋板が和邇に4基設置されたとの新聞報道だったのですが、和邇の湖岸と云ってもその範囲はとてつもなく広く見つかるか不安でした。

湖岸につくとこの日の琵琶湖は大荒れで波が高く、これではせっかくの橋板が流されてしまうのではないかと案じるほどの荒れ模様でした。最初に探したところは南浜と云うところで、これだけの荒波の中鯉釣りをやっておられる人がいました。ここには橋板と思われるものはなく、そのまま北の方に向かいました。



見つかりましたicon22
これこれ、これが琵琶湖に架かる橋板です。が、この日の琵琶湖の状態により流されないように橋板が裏返されていました。二本の棒が写っていると思いますがこれは足で、この二本の棒を砂地の中に埋め込んで固定します。



この2基の橋板よ~く見て見ると板がかなり古いので以前使われていたものかも知れませんね。昔は県の許可も何もなく何の不思議も感じずに設置されていたのですが、今では無許可で設置すると法律違反となるんだそうです。難しい世の中になってしまいました。

しばらくすると6人ほどのグループがこちらに向かって歩いて来られました。琵琶湖一周ウオーク中で信楽からやってきたと云っていました。今日の予定はこのまま湖西線の志賀駅まで歩くらしいです。信楽は山ばかりで琵琶湖がないので、この景色にみなさん感動されていました。そんなに大げさに感心しなくても同じ滋賀県人なのにと思ったのですがkao07。そして橋板の質問やらこの付近の歴史、挙句の果てには志賀駅までの道案内もやらされてしまいました。でも皆さんによろこんでもらってよかった。信楽の皆さん気を付けていってらっしゃいicon23

  


Posted by 吉祥 at 08:51Comments(2)琵琶湖晴耕雨読日記

2017年05月29日

琵琶湖の橋板



今朝起きていつも通りお茶を飲みながら朝日新聞に目をやると、滋賀版に前滋賀県知事の嘉田さんの和服姿の写真と記事が掲載されていた。プレス発表だったようて゜朝日はもとより、読売、毎日、京都などの朝刊にも掲載されたようです。

昔、かつて琵琶湖畔の家の前に桟橋のように架けられて、生活用水として利用されていた橋板を再生させようと保存会が結成され、14基が旧志賀町で設置されたと云う記事でした。

琵琶湖畔一円すべてそうであったか分かりませんが、少なくとも旧志賀町では琵琶湖の岸から沖に向けて写真のような板が設置されていました。この板に乗ってある時は野菜を洗ったり、洗濯物のゆすぎをしたりしていました。自分は比良山麓の湖畔で育ったものですから、家の前にこの板があっことよく覚えています。
新聞では橋板と紹介されていましたが、橋板とは云わずただ単に橋と呼んでいました。県の許可を得て湖岸沿いに畑の耕作をしていたのですが、バケツを持ってこの橋に乗って琵琶湖の水をすくいによく利用していました。あと、農家の方は泥でひどく汚れた野良着とか洗濯物のゆすぎなんかにも使っておられました。一軒のみで設置されているとこもありましたが、私の実家ではこの橋を利用する何軒かで管理していました。古くなって交換するときは利用者で費用を分担していました。

台風の時が大変で湖が荒れて、この橋が流されてしまうので陸の方に上げなければなりません。また通過後には元に戻さなければならないのですが、台風シーズンともなれば結構大変な作業となります。何度か流されたことがあって、親父が湖岸べりを探しに行った事もありました。

琵琶湖の水位が上がったり下がったりするので、高さの調整が難しいと云うか困難だっようです。橋の上に乗って洗い物をやろうとすると、渇水期だと腰を深く折り曲げなければなりません。板に二本の足がつけてあるのですが、この足をゆすって砂の中に差し込んで高さ調整をすることになります。折角ほどよい高さになったと思ったら、梅雨期なると増水して橋板が水没してしまい今度は上にもちあげなければなりません。これの繰り返しでこれは大人しかできなかったですね。
しばらく橋が水につかったままになっていると、板がヌルヌルになって滑ってしまい困った事になります。一度、何歳位だったかなぁ~このヌルヌルの状態の橋に乗った途端、180度もんどり返って琵琶湖にドスン。腰をいやっと云うほど打つわ、パンツもシャツも何もかもドボドボで往生したことがありました。

橋板は昭和の何年頃まであったでしょうか。30年代まで?。橋板が湖畔沿いに遠くまで不規則な間隔で設置されていて、それはそれは湖西地区で見る湖畔の原風景でした。この橋板ですが今では設置しようとしたら県の許可がいるのだそうですね。今回この許可が降りて、旧志賀町内に14基設置されたそうです。今週末湖西の方に行く用事があるので、昔懐かしい原風景を見てこようと考えています。
  


Posted by 吉祥 at 10:12Comments(2)琵琶湖晴耕雨読日記
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