2022年06月09日

志賀の都

志賀の都

先ずは志賀の都の出自からですが、志賀の都と聞いたら県民なら誰もが知る加藤登紀子さんが歌う琵琶湖周航の歌。

われは湖の子  さすらいの
旅にしあれば  しみじみと
のぼる狭霧や  さざなみの
志賀の都よ   いざさらば

和歌、万葉集のことはよく知らないのだけど、柿本人麻呂が詠んだとされる下記の歌は知っている。。

「淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば
情もしのに 古思ほゆ」

中学生の時何の教科だったか忘れたが教えてもらった。古(いにしえ)とは大津京のことを指すって聞いた。
おうみのみ ゆうなみちどり ながなけば
こころもしのに いにしえおもゆ  ですよね。

「楽浪の志賀の大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも」
この歌も柿本人麻呂の作だそうで、大津市役所の玄関口に歌碑があるそうですね。

志賀の都
【さざ波ってどういう波の事を云うのだろうか、私はこれがさざ波だと思っているのだが?】

「さざなみや 志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」
こちらは平忠度の和歌、長等公園に歌碑があるそうですが、そういえば見たようなないような(*^^*)。

で、志賀の都と云えば言わずと知れた天智天皇造営による大津京です。なので、私は天智天皇ですから、飛鳥時代にこの志賀が使われだしたと考えていた。ところが調べてみると天智天皇より以前の景行天皇の名がでてきた。
京阪坂本線の穴太駅近くに、景行天皇、成務天皇、仲哀天皇が居とした高穴穂の宮があったとされている。この出自は日本書紀、古事記の両記紀に掲載されている。3代の天皇は12、13、14代の天皇であって、景行天皇は西暦170年頃の天皇らしいから、果たしてその信ぴょう性はいかがなものなんでしょうか。景行天皇より息子さんの日本武尊のほうが有名かもしれない。

それでこの高穴穂の宮のことを「志賀高穴穂宮」と記紀で紹介されている。高穴穂の宮が実際にあったかどうかは別にして、奈良時代の書物とされる記紀に登場すると云うことは、奈良時代には少なくとも志賀は使われていた。
志賀小学校、京阪滋賀里駅から歩いて百穴古墳群を訪ね、崇福寺跡の道中には志賀大仏と評される石仏がある。崇福寺跡から比叡山にかけて古道が残っているが、この道は志賀越えとして今も残っている。

ここから余談であるが、石川と福岡にも志賀がある。福岡博多の志賀島は有名で昔は博多マラソンで、砂洲で志賀島と繋がった海の中道を選手が走っているのテレビで見ていた記憶がある。志賀島で有名なのは「漢委奴国王」と刻印された金印が、江戸時代に一人の農民によって発見されたことである。この金印だが国宝に指定されていて、現在福岡の博物館に保管されているようだが、物議を醸しだされているそうだ。
子供の頃に聞いた話だが、卑弥呼が魏の国に貢物を持って表敬訪問した折、土産に魏の国の国王から鏡と金印が下賜された。それがこの金印だと聞いていたが、ではないらしい。それどころかこの金印、専門家のの間で真贋論争になっているらしい。三角縁神獣鏡も卑弥呼が持ち帰った鏡ではないかと云う説が一時あったらしいが、全国から出土する三角縁神獣鏡があまりにも多すぎて今は話題にもならないみたいだ。

金印と三角縁は話が長くなるのでここまでで、一つ目の志賀もここまでにしておきます。次回は旧志賀町に行きます。


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