2013年05月15日
太湖汽船の乗船場

前回からの続きです。
画像の場所は元志那港があった場所です。琵琶湖総合開発が始まったのは昭和47年らしいですが、昭和55年頃はまだこの辺りは入江になっていて内湖が広まっていました。湖岸には柳が植わっていて内湖にはヨシが生えていました。最もびわ湖らしい風景で、好きな場所だったのですが今は湖岸道路が出来て面影はなくなりました。
前回でも書きましたが、歩き仲間の方が昭和の写真集を持ってこられていて、2枚この場所が紹介されています。一枚は昭和の初めの頃で、太湖汽船から乗客が降りたところの写真です。かなり大きな船が写っていて女性は着物姿で子供の姿が写っています。おそらく穴村のもんやさんへ行かれる時の写真でしょうね。
もう一枚は昭和40年初期の頃と説明してあります。

この建物の持ち主さんが隣の畑で仕事をされていて、私たちが歩いて行くのを不思議そうな顔をしてみておられ、近くまで行くと「まあー、吉祥さんやか、また何でこんなとこに」と。赫々然々で歩いているんやと云うと、良い天気やしそれは良いわと。この建物は早くからもう無住なのですが、ここが太湖汽船の志那中港の乗船場だったとこです。
私は建物内部は何度も入っていて知っていたのですが、同行者の方は知らないので開けてもらって中を見せてもらいました。以前弟さんからも聞いたのですが、もう昔のものは何も残っていません。何でも琵琶湖博物館に全て寄付したのだそうです。運賃表なんかもあったらしいのですが。
「ここでこう切符を売っていて、こちらが当時は待合室。ぐるぐる回す電話があって、ここは常盤局の5番」これだけ聞いただけで往時の賑やかなことが浮んできます。

もう何十年も閉めたままなのでもう取り壊さないといけないやろうねとの事でした。詳しくは知らないのですが、太湖汽船の乗船場が現存していてるのは、もしかしたらここだけかも知れませんね。


このあと志那の蓮海寺に向けて歩いたのですが、昔入江になっていたところは綺麗に整備されていて、釣りファンが釣り糸を下げていました。鮒を狙っているのだとか云っておられましたが。
連歌師の山崎宗鑑はここ志那の出身だとか。

ここ蓮海寺には明治期に国宝に指定された地蔵菩薩像が安置されています。山崎宗鑑の句碑を見ていたら、運よくお婆さん二人がお堂から出てこられました。だめもとで一緒にお参りされてもらえないかと訊ねたらいいですよとのこと。
私は以前一度よく似たことで拝観したのですが、同行者は皆始めてみるとのことで喜んでいました。

このあとは重文指定の志那神社と、境内にある藤、鎌倉時代の作という石塔を見学。帰宅予定時間をオーバーしそうな為、三大神社の藤見学は外しました。下笠にある横井金谷翁のお墓を訪ねて総合体育館に無事到着。万歩計では2万5000歩だったらしい。乗船場の地図を載せておきます。