2014年07月09日

和邇村を案内しました

和邇村を案内しました

すっかり遅くなってしまいましたが、先月の19日玉川公民館の歴史サークルのみなさんと大津市和邇地区を歩いてきました。公民館活動で草津市玉川地区の歴史の好きな方々がサークルを作っておられ、月に一度歴史ウオークを楽しんでおられます。私も昨年まで会に入れていただいていたのですが、私は地区外なのと諸々の事情で退会しました。
この会は毎回順番で会員が行先のガイド役を務めることになっていて、私は事情知った堅田から旧志賀町そして草津の北西部の案内をと思っていたのですが堅田を案内しただけに終わってしまいました。

昨年栗東の歴博であった、「湖南における古代製鉄遺跡」の報告会で、ばったりとサークルの会長さんと出会いました。そのおり堅田は案内さしてもらったのですが、和邇地区は案内せずに退会したので心残りですと云うと、ぜひ来年お願いしたいと請われました。

自分の案は和邇を中心に琵琶湖岸を歩くのがよいかなぁーと考えていたのですが、会の方から小野の古墳群から和邇まで歩きたいといいます。そのうえ大塚山古墳にゼニウス古墳から妹子神社まで歩くという。妹子神社は別にしても大塚山は無理、絶対に無理ですよと答えておきました。古代の古墳ということで一度見てみたいと思われるのかも知れませんが、小野地区の古墳はその殆どが壊されていて内部を見学するところはありません。大塚山は対岸の守山木の浜方面から見ると、ラクダの背のように二つの小高い山が見えると思います。一つが曼荼羅山古墳で右側が大塚山です。中学生の時、地元の小野の同級生に連れて行ってもらって大塚山に行ったことがあります。何一つとして記憶にないのですが、当時はまだローズタウンの建設も始まっていなくて、草木が生い茂る山の中を歩いたことだと思います。唯一山頂に大きな石が横たわっていて少しだけ穴が開いていました。

この大塚山古墳は古墳資料としてはかなり貴重なようで、各種遺跡報告書に残っているようです。大正期でしたか発掘調査が行われていて、土器等も出土して写真も残っているようなのですが、肝心の出土品がすべて行方不明なんだそうです。昔の埋蔵文化財の取り扱いはかなりずさんだったんですね。とまあーそんなことで、爺ちゃん婆ちゃんでは大塚山は無理だし、奈良の古墳のように保存されていないから行っても無駄ということで納得してもらいました。

写真はまず最初に訪れた妹子古墳と妹子神社です。
ここも私の案内経路では入っていませんでした。と云うのは古墳も半壊しているし、小野妹子神社と云ってもそれほど立派な建築物ではないからです。しかし会の方から小野妹子は日本の外交の始祖でもあるし、ぜひとも行ってみたいと云われそれならと案内しました。
神社と古墳があるところは今はローズタウンのど真ん中にあって、唐臼山公園と山全体が保存されているようです。古墳自体は小野妹子の墳墓となっていますが、それは言い伝えによるもので果たしてどうなんでしょうか。ただここも調査は過去に行われ、その時に出土した須恵器が妹子の時代と合致するらしいです。日本書紀には、小野妹子は滋賀郡小野出身なりと記載されているようなので、小野が出生地なのは間違いないと思うのですが、あまりにも歴史が古すぎて何かそれらしきものが無いのが残念です。小野妹子生誕地跡なんて石碑でもあったらいいんだけどなぁー。

和邇村を案内しました

画像は小野道風神社で国の重要文化財の指定を受けています。
この和邇地区には天皇神社、小野篁神社、そしてこの道風神社と3棟が重文指定となっています。そのいずれもが屋根が切妻となっていて、簡素な造りに見えますが県内でこの様式はこの3棟だけで全国的にも珍しい造りなんだそうです。

道風と聞いて思いおこさせるのが花札ではないでしょうか。傘をさした烏帽子姿の道風が見ているのは、柳の小枝に飛び移ろうとする蛙。何度も何度も葉っぱをつかみ損ねては再度挑戦。そしてとうとう柳の木に登りつめた話は有名で、道風自身も元々うまくなかった書道ではあるが精進を重ねて三蹟の一人として名声をうけました。書家であるとともに、歌人としても有名なようで百人一首に、篁、小野小町ともども登場してきます。道風はこの小野地区の出身ではないのですが、何故ここ小野の地に祀られているかは後ほどに。

和邇村を案内しました

道風神社から石上神社~石神古墳群~小野神社と歩きました。画像は今回の歩きの中心地である小野神社???。
小野神社??としたのは実はわけありなんです。写真の階段下あたりの参道の傍らに、「小野神社、篁神社」←経路と書かれた道標がたっています。5月4日に事前調査で来たとき気がついたのですが、この案内板の意図するのはなんでしょうか。これはあくまで私見なのですが、多分、そしておそらくこうだと思います。
初めてここを訪れた方は綺麗に整備された参道を進んで、石段をあがっていきコウベをあげると檜皮葺の立派な社が目につきます。多分初めての方はこの画像の建物が小野神社だと思われるでしょう。しかしこの建物は篁神社と云って、重文ですが小野神社ではありません。小野神社の境内社なんです。

ですからお参りされる方は、まず本殿の小野神社に参ってからこの篁神社に参ってくださいね、とわざわざ呼びかけておられるのだと思います。小野神社は画像の左奥の隅に小さく写っているのがそうなんです。

で、本殿の小野神社は云うと江戸時代の作のようで、篁神社と比べるとどうみても風格が落ちてしまいます。境内社が正面にあってなんで本殿が日陰に咲く月見草なの。これにはどうやら訳があって、なんでも南北朝時代に神主が南朝方に加担したため、のちのちに神職を解かれたからだとネットで見たことがあるが果たして真偽のほどはどうなのか。ただこの小野神社は延喜式による式内社で、元は日吉大社と同格の官幣大社であったいうから、平安、鎌倉の時代の頃は中央にお座しておられたのかも知れない。

それにこの小野神社であるが、餅、菓子の祖神となっていて、祭神は米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)だという。以前からいつも気になっていたのだが、米餅搗がどうしてたがねつきと読めるのかが疑問だった。昨年に栗東の歴史博物館であった報告会で、栗東市役所の佐伯さんがこのような発表をされました。それは県内に残る鉄にかかわる話と題して、大津市小野にある小野神社は今は饅頭、餅の祖神となっているが、あそこはもとは餅と鉄の二神が祭神であったと云う。小野神社近くにはタタラ遺跡が残っていて、これからも分かるようにこのあたりで鉄生産が行われていたのではなかろうかという話です。そこで創建当初は餅と鉄が祭神で、大陸からの鉄の技術者が祀られていたのはなかったという。
たがねつきのタガねとは石を割る道具で、たがねつきだけが現在まで残ってしまったのはなかろうかということです。

ここで神社四方山話をして和邇公園に向かうのだが、国道に出る手前に上品寺(じょうぼんじ)という真に立派なお寺があります。この寺を創建したのは小野篁であると伝えられています。篁は遣唐副使に任命されるのですが、大使との折り合いが悪くてこれを拒否。嵯峨天皇に隠岐の島へ蟄居されるという反骨の人物だったようです。でも3年後には許されて帰京し、昇進を重ねて参議まで登りつめた云うのですから力量は優れていたのでしょうね。

で、この上品寺は天台真盛宗で、本山は坂本にある明智光秀一族の墓で有名な西教寺です。和邇には6ヶ寺があって真宗、浄土が各1寺であとの4ヶ寺は天台真盛宗です。真盛上人が開かれたのですが、真盛上人は比叡山横川の出身で極楽浄土集で有名な、恵心僧都源信のお弟子さんだと聞いたことがあります。

まあーなんやこんなことで、和邇公園にてお昼で昼食と休憩。この公園ですができて何年ぐらいんですかね。昔はこのあたりは畑が広がっていたのですがいつのまにか立派な公園が出来上がっていました。

和邇公園から今津方面に歩いていくと四差路の真ん中に大きな石が鎮座している。この巨石があったところには、昭和40年ころまでには榎の木が生えてあった。なんでも一里塚跡らしくて、天皇神社の御神木であったらしい。中世の時代よりこの和邇は拓けていて、文献に北陸道(北国海道)には穴多(おそらく今の穴太のことでは)、和邇、三尾(今の高島町付近)、鞆結(不明だがマキノ付近ではないか)に駅家が設置されたとあり、古くから栄えていたことがわかります。しかも平安から現在においても和邇と何ら地名が変わっていないのには驚きでもあります。
そしてここは大字今宿といい、宿場町であったことが町名からでも知ることができます。

ここには有名な話が残っていて(それほど有名ではないかも知れないけど)、ある日安曇川からこの和邇宿まで加賀藩からのお客さんを送り届けた馬子がいました。無事和邇まで送って安曇川に帰り馬の鞍を外すと、何やら重い堤がでてきて中を開けてみると小判が200両。これはきっと先ほどのお客さんが忘れたものだと、取って返して和邇まで戻ると宿では大騒ぎになっていました。そしてその堤を渡すと、この小判は藩の命令で京の都まで送り届けるところで、なくしたとなると自分はもとより家族まで罪が問われる所で、お礼にと20両を差し出されました。馬子は驚いて滅相でもありません。これは受け取ることはできませんと突き返します。ではその1割の2両で、いやいや受け取るわけには。こうやって押し問答の末、馬子はこう切り出します。では申し訳ありませんがお酒を2升買ってきれませんか。それはそれはお安い御用でと、旅人がとっくりを引き下げて宿に戻ると、馬子がこのお酒を宿の泊客の皆さんに飲んでもらってくださいと立ち去ろうとした。

驚いた旅人がせめて貴方様のお名前だけでもと問うと。自分はしがない馬子だが、毎夜隣の小川村に住む中江藤樹先生の所に勉強に行っていると云う。そして先生から、親には孝行を、人のものを盗ったり嘘をついてはいけないと常々教えられています。このお金はあなた様のものであって、私がどうしてこのお金を受け取ることができるでしょうか。
そしてこの噂話を聞いたのちに門下生となる熊沢蕃山が、雪が降り積もる中3日3晩弟子入りを乞うたという話の元がここなのです。熊沢蕃山は、娘さんがこの和邇宿の近くの栗原の畑家に嫁ぐことになり、たびたび和邇の地には来ていたようです。昭和50年ころまで蕃山文庫という、私設の資料館があったのですが台風で倒壊してしまいました。華奢な図書館だったのに惜しまれます。

で、宿場町だというのに今ではさびれてしまって往年の賑やかさは全く感じられません。少なくとも国鉄湖西線が開通するまでは榎商店街と云って大層賑わっていました。魚屋さんは3軒ありましたし、肉屋さん、桶屋さん、靴屋さん、文房具屋さん、饅頭屋さん、鍛冶屋さん、時計屋さん、クリーニング屋さん、自転車屋さん、電気屋さん、下駄屋さん、呉服屋さんは2軒、酒屋さん、郵便局、パン屋さんとパンの製造屋もあった。金物屋に雑貨屋さん、よくお世話になった駄菓子屋さん、目立て屋さんにハギレ屋さん。鶏肉屋さんもあったし花市の花屋さんもあったなあー。うどん屋にそうそうたまり場のたこ焼きと回転焼の露店、メンコにビー玉を売っていたのは何屋さんだったけ。とまあー要するに売ってない物はありませんでした。堅田商店街はここよりもっと賑わっていましたが、それにしてもどちらもあまりの凋落に愕然とします。

この商店街を通っている道は北国海道。大津の札の辻から敦賀まで通じている道で、奈良時代からすでにあったそうです。国道161号線と並行あるいは重なっていて、殆どが拡張されたり161号線になっているので面影を知るころはできないのですが、藤野食品の近くには常夜灯が残されていて僅かにそこが旧道であったことがわかります。
この常夜灯を進むと、今は新興住宅地となっているが江若鉄道の和邇駅があった所。江若鉄道は昭和43年に湖西線の建設工事と共に廃止となりました。当日皆さんを案内したのですが、江若鉄道を知る人も少ないし、それにそこが駅跡だと思われるものが何一つとして存在してないのがなんともやり切れない気持ちでした。

この江若鉄道駅跡を東よりに少し歩くともうそこはJR和邇駅。時計をみるとまだ2時。ここからが真骨頂でどうしても案内したいところがある。まだ帰るには少し早いので琵琶湖をみてみませんか。湖南(草津、瀬田、守山)、大津あたりの風景とはまた違った琵琶湖が見ることができますよと。ここから歩いて5分ばかしですし(実際は5分では無理、こう云っておかないとやめとこうになるから(笑))、どうされますかね~問うと、みなさん折角来たのだから行こうということに相なりけりとなりました。
当初私の案では、妹子神社と道風神社でなく和邇浜水泳場から湖岸べりを歩こうと考えていました。古墳と神社もよいのですが、ぜひ和邇の浜をみてほしいのと、知らない町を歩いてほしかったためです。湖岸べりをずっと歩くことはできなかったのですが、駅近くからの琵琶湖を案内すると、みなさん一同にお~ええとこやなぁ~の声が湧き上がりました。

でしょう~。
この細い狭い里道の所はね、昔、東映の映画撮影のスポットでした。美空ひばりさんが16歳の時ここに来て、そこの砂浜で休憩してはったんおぼえているわ。スターはタクシーでなくてハイヤーで来てね、その他セリフなしの通行人役はボンネットのバスに乗ってきてはったんやね。子供の時のことやから、まだ事情がよく飲めこめなくて、ちょんまげ姿が何となく怖いものを見るようで遠くからのぞいていました。
正面に見えるのが沖ノ島、正しくは沖島らしいですがこちらでは沖の島と言っていました。いつもなら比良の山は緑が映えるののですが、この日はPMか黄砂かの影響かすっきりしていないのが残念で、天然の額縁絵をみていただけませんでした。JRの和邇駅までの帰路中にもみなさんええとこやなぁーとおっしゃてくださった。そうやろうええとこやろう。

今回は北から南へ和邇を歩いたのですが、機会があれば西から東向いて案内したいものです。こんな感じで下手なガイド役をやってきました。ブログではすべて書けなくて少しばかり和邇の町の紹介しました。歴史の専門家でもないし、歴史オタクでも私はないので内容についてはエエ加減やと思っています。それとこの記事は何回にも分けて書きました。誤字脱字はもとより、構成を含めて年寄りの作文だと思って笑ってやってください。

和邇については過去にも何度か記事にしていますが、だらだらとした長文おつきあい下さってありがとう。


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この記事へのコメント
吉祥さん、久し振りですね。吉祥さんのブログは毎回拝見していますが、コメントは差し控えていました。
今回は、長編の力作を載せているので、コメントしたくなりました。
小野から和邇へは、以前訪れていますので懐かしく拝見しました。
私の「滋賀の風景」にも載せています。
加賀藩の200両の話も、童門冬二の「中江藤樹」の本で読みました。
童門冬二の本は読みやすく、捕えどころが良いので愛読しています。
和邇の浜も良いとこですね。先日マキノ町に行ったのですが、そこの
高木浜も素晴らしかったです。帰りに吉田酒造の「竹生島」を購入してきました。
これからも、ブログを継続し文才を発揮して下さい。
Posted by kobatoan at 2014年07月09日 16:03
こんにちは
いつもながらの丁寧で判り易い記事、感心します。
同じ所へ行ったと思えないくらい恥ずかしいです。
写真をよく見ると小野篁神社の説明板に「社殿は祭神(篁命)の古墳上にある」と記載されていました。
となると小野神社の跡地に古墳を作って、江戸時代に小野神社を再建したという事ですかね。
いい忘れていましたが和邇浜はいいところでした。
琵琶湖大橋が見えないのもいいですね。
また、宜しくおねがいします。
Posted by 爺爺の手習い爺爺の手習い at 2014年07月09日 16:28
本当にご苦労さんでした、
わたしもブログに書くのに苦労したんです。
でもいい文章でかいておられますね。

この記事、南草津の例会が12日に行われます。そのときにわたしていいですか、OKまたはだめ との 連絡いただけますよう。

でも和邇浜はきれいでしたね。舞子や白髭と全然違う雰囲気でした。
Posted by そば打ちおじさんそば打ちおじさん at 2014年07月10日 00:07
kobatoanさんへ。
こんにちは。小野から和邇まで歩かれましたか。実はこの記事も最初は小野から和邇まで歩くにしょうと考えていました。
ただちよっと気になることがありました。ここは今は大津市和邇ですが、3年ほどに市町村合併で大津市に編入されました。それまでは滋賀郡志賀町です。滋賀郡には志賀町しかありませんでした。堅田も滋賀郡でしたが早くに大津市と合併していました。もっと昔はと云うと石山も滋賀郡石山村の時代があつたみたいです。

この和邇も志賀町の前は和邇村でした。和邇村には8つの大字というか集落があるのですが、小野はそのうちの一つです。ですから小野から和邇というのは不自然な感じがして、あえて今は消えてしまつた和邇村にしました。小野から和邇は、小野駅から和邇駅までと云えばそれまでですが。

童門冬二は歴史大学の学長ですね。本は読んだことありませんが、200両のこと本に書かれているんですね。私は熊沢蕃山で知りました。

みなさん和邇の湖岸は初めてだったのか、すごく喜んでもらいました。竹生島は滋賀県の名酒ですよね、飲んだことはありませんがおいしいですか。
Posted by 吉祥吉祥 at 2014年07月10日 07:05
爺爺の手習いさんへ。
こんにちは。篁神社にそのような説明板がありましたか。
社殿というのは篁神社のことですか?。今の小野神社は江戸時代に建てられたもののようです。それも後半ではないかと私は想像しています。

小野神社は延喜式の式内社で、平安時代にはすでにあったことははっきりしています。一方篁神社は1300年代の頃の建築物だったと思います。
何でも近江守護の佐々木守頼という人物が建てたらしいですが、この守頼という人のことがよくわかりません。
佐々木と云うのですから、佐々木信綱が4人の子どもに、大原、高島、六角、京極と分家さして以前の人物だと思うのですがよく分かりません。古墳上というのは篁のお墓ということですか。

あの付近ですが神社裏には古墳が今も眠っているようです。古墳上というのは広い範囲の古墳をさしているのだと思いますがね。篁は反骨の人物だったようですが、記事の中に書いた熊沢蕃山も反骨の人だったようです。中江藤樹に師事したのち幾多の本を出すのですが、その中に幕府を非難したようで幕府の逆鱗にふれたようです。そのため関東のどこかの藩に蟄居を命じられることになったみたいです。

滋賀県にゆかりのある人で、和邇の栗原に娘が嫁いだみたいだし、母親は水戸藩の出ですが祖母が近江八幡の桐原の出身だそうです。その縁か近江八幡にも何度か来ていたようです。熊沢蕃山のこと詳しく知りませんが調べたら面白いかも知れません。

和邇の浜気に入りましたでしょうか。
Posted by 吉祥吉祥 at 2014年07月10日 07:41
そば打ちおじさんへ。
まだまだ書き足りないのですが、疲れたのでやめました。
写真、記事ともに自由に使ってもらってけっこうです。写真は3枚しか撮りませんでした。

和邇の浜みなさん気にいられたようで良かったです。
Posted by 吉祥吉祥 at 2014年07月10日 07:45
昨日、前の会長にわたしました。そうしたら、コピーして8月にみんなに配るということです。
8月は矢橋めぐりです。鞭崎八幡宮の大神神主さんからいいお話と、石津寺の住職のお話があります。近くにいてるのに、石津寺の中を見せてくれるようです。お寺は足利時代にたてられたもので重要文化財、中の仏像は徳川家康が江戸の寛永寺にもっていきました。残った仏像もまたいです。
よかったらきて下さいね。時間はまたいいますね。
Posted by そば打ちおじさんそば打ちおじさん at 2014年07月13日 11:17
そば打ちおじさんへ。
みなさんにお渡し出来るような資料でもないのでちよっと恥ずかしい限りです。8月ですが日程が合えばよいのですが?。
Posted by 吉祥吉祥 at 2014年07月13日 21:18
歴史、史跡のことはもちろん、和邇の商店街の想い出話はわくわくしました。
実際に現場でお話をお聞きし乍ら歩きたいです。

藤樹の馬子の話は、安曇川の子どもたちはみんな知っているのではないでしょうか。

蕃山文庫、昔行った時になにか建物があった?いや〜説明板だけ見たのかな〜 いろんなものがごっちゃに記憶されています。

すばらしい記事をありがとうございます。

追伸‥ひょうたんって、有毒でした〜汗
Posted by sho惑星 at 2014年07月15日 17:34
sho惑星さんへ。
ブログ記事ですべて書くのはしんどいですわ。まだまだ書き足りないのですが、爺爺さんもそば打ちさんもすでに投稿されていたので私もアップしました。来ればよかったのですが忙しいでしょうから無理ですわね。

馬子の話は結構有名な話らしいです。昔は修身の本に載っていたらしいのですが、修身の本と云ってもしりません。なんでも道徳の本らしいですが。

蕃山文庫御存知でしたか。ということは栗原にスケッチに行かれているんですね。栗原もしくは南浜に行くと生活の匂いがする場所があると思いますが?。
瓢箪のことニュースになっていました。記憶違いをされることもあるんですね。
Posted by 吉祥 at 2014年07月16日 06:49
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