2012年08月16日
水野正好先生の講演に行ってきました

昭和に野洲の銅鐸が発見されてから、今年は50年目にあたるのだそうです。それで先日銅鐸博物館で水野先生を迎えて、記念講演があり私も出かけてきました。
先生は元々は滋賀県の文化財保護課に勤務されていて、その後奈良大学の学長を勤められた方です。その後も多方面で幅広く活躍されていて、考古学の第一人者であることは間違いありません。
以前図書館でサンライズ社出版の銅鐸と邪馬台国という本を借りてきて読みました。ひよっとしたらこのブログに書いたかも知れません。これは平成10年に当時の野洲町で行われた、銅鐸サミット&シンポジュームの内容を出版されたものです。
とりわけ発見当時、京大梅原末治教授との丁々発止の生々しい確執が記されていて記憶に残っていました。当日どんな話が飛び出すものかと思っていたら、なんと10年以上も前にこの本に書かれた内容そのままでした。この梅原先生ですが性格的にかなり厳しい方だったようで、論敵も多くおられたみたいです。

ところで銅鐸ですが、謎が多いですね。その最たるものですが使用目的ですが、当初はやはり楽器として使われていたようで後々に飾り物に変化していったとか。
でも水野先生は楽器は楽器でも軍事用の楽器が持論なんだそうです。講演はがんばって聴いていたのですが、一部聞きづらいところがあったので帰り際守山図書館で再度銅鐸と邪馬台国借りてきました。
Posted by 吉祥 at 08:23│Comments(8)
│近江歴史回廊
この記事へのコメント
おはようございます
朝夕少し凌ぎやすくなりましたが、日中はまだお暑いです。
謎の多い銅鐸 邪馬台国との繋がり 興味があります
私も図書館で借りてこようと思います 有り難うございます。
朝夕少し凌ぎやすくなりましたが、日中はまだお暑いです。
謎の多い銅鐸 邪馬台国との繋がり 興味があります
私も図書館で借りてこようと思います 有り難うございます。
Posted by パル
at 2012年08月16日 10:54

野洲の銅鐸博物館には2回ほど行ったことがありますが、銅鐸の使用目的については十分に理解できていませんでした。楽器(軍事用も含め)が有力のようですね。飾りというか、祭りや神への祈りの道具などの説もあるかと思っていました。
「銅鐸と邪馬台国」の本にはどのようなことが書かれているのですか。
「銅鐸と邪馬台国」の本にはどのようなことが書かれているのですか。
Posted by kobatoan at 2012年08月16日 10:56
パルさんへ。
おはようございます。遅くなりすみません。
涼しくなったかと思うと真夏に戻ったりと、夜のクーラーをつけたり消したりと忙しいです。
水野先生ですが、初めて講演を聞く事ができました。楽しい先生ですね。大学教授の講演会というと、えてして話が堅苦しくて退屈なのですが会場は笑いで一杯でした。
本の内容ですが、10年も前に野洲で行われたシンポジュームを出版されたものです。タイトルは邪馬台国とありますが、ほとんどは銅鐸の話題です。パネルディスカッションで邪馬台国の話題が少しでてきます。
講演は4人の先生がでてきますが、水野先生の話しのところは面白いです。この日の講演内容とほぼ同じのことがこの本に書かれています。梅原末治教授とのバトルが興味深いです。
おはようございます。遅くなりすみません。
涼しくなったかと思うと真夏に戻ったりと、夜のクーラーをつけたり消したりと忙しいです。
水野先生ですが、初めて講演を聞く事ができました。楽しい先生ですね。大学教授の講演会というと、えてして話が堅苦しくて退屈なのですが会場は笑いで一杯でした。
本の内容ですが、10年も前に野洲で行われたシンポジュームを出版されたものです。タイトルは邪馬台国とありますが、ほとんどは銅鐸の話題です。パネルディスカッションで邪馬台国の話題が少しでてきます。
講演は4人の先生がでてきますが、水野先生の話しのところは面白いです。この日の講演内容とほぼ同じのことがこの本に書かれています。梅原末治教授とのバトルが興味深いです。
Posted by 吉祥
at 2012年08月17日 06:55

kobatoanさんへ。
おはようございます。遅くなってしまってすみませんです。
初期の銅鐸は内部が磨耗していて、おそらく鳴らしていたのではないかと言うことです。銅鐸に鹿を初めとして動物がレリーフされていたり、農耕の様子が描かれたりしています。そこで農事の祭祀で使われていたのではないかと言うのが通説のようです。
しかし水野先生は銅鐸が全く出土していない地域があり、祭祀に使われていたのではなく戦いの際に使用されたものとだと言われています。
本では邪馬台国と書かれていますが、邪馬台国の話しはパネルディスカッションで少しでてくるだけで、その関連についてはよくわかりません。
銅鐸と邪馬台国ですが興味深くなってきました。
おはようございます。遅くなってしまってすみませんです。
初期の銅鐸は内部が磨耗していて、おそらく鳴らしていたのではないかと言うことです。銅鐸に鹿を初めとして動物がレリーフされていたり、農耕の様子が描かれたりしています。そこで農事の祭祀で使われていたのではないかと言うのが通説のようです。
しかし水野先生は銅鐸が全く出土していない地域があり、祭祀に使われていたのではなく戦いの際に使用されたものとだと言われています。
本では邪馬台国と書かれていますが、邪馬台国の話しはパネルディスカッションで少しでてくるだけで、その関連についてはよくわかりません。
銅鐸と邪馬台国ですが興味深くなってきました。
Posted by 吉祥
at 2012年08月17日 07:04

何で銅鐸が野洲にあるかですよね。一回も博物館へいってません。
また一回行って見よう。
邪馬台国は滋賀にあったというのは本当のような気がするのでは、
そういう本も図書館においていましたわ。
また一回行って見よう。
邪馬台国は滋賀にあったというのは本当のような気がするのでは、
そういう本も図書館においていましたわ。
Posted by そば打ちおじさん at 2012年08月17日 23:57
そば打ちおじさんへ。
なぜ野洲に銅鐸があるかですが、一つの説として銅鐸が製作されたら朝廷に集められるのですが、そのあと各地に配るのに野洲から配られていたのではないかと言うことです。勿論仮説の話ではあります。
邪馬台国近江論の話ですよね。伊勢町にすむ歴史愛好家が本を出版されているようで、守山市がこれを町おこしの起爆剤にしょうと考えているようです。
なぜ野洲に銅鐸があるかですが、一つの説として銅鐸が製作されたら朝廷に集められるのですが、そのあと各地に配るのに野洲から配られていたのではないかと言うことです。勿論仮説の話ではあります。
邪馬台国近江論の話ですよね。伊勢町にすむ歴史愛好家が本を出版されているようで、守山市がこれを町おこしの起爆剤にしょうと考えているようです。
Posted by 吉祥 at 2012年08月18日 15:59
吉祥さん 大変、ご無沙汰しております。
ふむ、ふむ~銅鐸は、軍事用の楽器なんですか?
銅鐸の小さい物は、「楽器」や、「呼び鈴」のものがあり、銅鐸の内部に、その鈴として使用されていた傷跡があるのを見せて頂いた事があります。
出土した当時は、野州が、日本一だったようですが、今は、他の場所でたくさん出土した所が以降に発見され、日本で、二番?または三番?だと、聞いています。間違った情報なら、すみません。
明確な使用目的が、まだまだ謎の銅鐸は、興味深いですね。(*^^*)
ふむ、ふむ~銅鐸は、軍事用の楽器なんですか?
銅鐸の小さい物は、「楽器」や、「呼び鈴」のものがあり、銅鐸の内部に、その鈴として使用されていた傷跡があるのを見せて頂いた事があります。
出土した当時は、野州が、日本一だったようですが、今は、他の場所でたくさん出土した所が以降に発見され、日本で、二番?または三番?だと、聞いています。間違った情報なら、すみません。
明確な使用目的が、まだまだ謎の銅鐸は、興味深いですね。(*^^*)
Posted by プーちゃん(PU-ちゃん)
at 2012年08月25日 17:29

プ-ちゃんへ。
こんばんは。こちらこそご無沙汰しています。
朝晩は少し風も感じられてきましたが相変わらず暑いですね。
銅鐸の話しですが、初期の銅鐸は音を鳴らしていて聞く銅鐸と言われているそうです。そのあとは野洲で見つかったのですが、大きな銅鐸ができるようになり、見る銅鐸に変化していったそうです。初期の銅鐸には内部が磨耗していて、打ち鳴らした痕跡がみてとれるようです。
一般的に銅鐸は農耕の様子がレリーフされていて、農事用の祭祀の楽器に使われたものだとする説が有力らしいですが、水野先生は軍事用の楽器だと解かれています。
その理由は農耕用の祭祀としたならば、各地から出土するはずですが未出土地域があるのがその理由なんだそうです。
私はこの軍事用説には賛成しかねています。だって銅鐸が奏でるやさしい音色が軍事に使われますかね。
一番は島根の加茂岩倉古墳から銅鐸のことだと思います。
あくまで私の意見ですが、銅鐸の使用目的については永遠に不明だと思います。記紀にも何らその既述がないそうなので、確かめる方法がないのがその理由です。まだ邪馬台国が近畿か九州かの確立のほうが高いのと違いますかね。
こんばんは。こちらこそご無沙汰しています。
朝晩は少し風も感じられてきましたが相変わらず暑いですね。
銅鐸の話しですが、初期の銅鐸は音を鳴らしていて聞く銅鐸と言われているそうです。そのあとは野洲で見つかったのですが、大きな銅鐸ができるようになり、見る銅鐸に変化していったそうです。初期の銅鐸には内部が磨耗していて、打ち鳴らした痕跡がみてとれるようです。
一般的に銅鐸は農耕の様子がレリーフされていて、農事用の祭祀の楽器に使われたものだとする説が有力らしいですが、水野先生は軍事用の楽器だと解かれています。
その理由は農耕用の祭祀としたならば、各地から出土するはずですが未出土地域があるのがその理由なんだそうです。
私はこの軍事用説には賛成しかねています。だって銅鐸が奏でるやさしい音色が軍事に使われますかね。
一番は島根の加茂岩倉古墳から銅鐸のことだと思います。
あくまで私の意見ですが、銅鐸の使用目的については永遠に不明だと思います。記紀にも何らその既述がないそうなので、確かめる方法がないのがその理由です。まだ邪馬台国が近畿か九州かの確立のほうが高いのと違いますかね。
Posted by 吉祥
at 2012年08月26日 22:37
