2013年05月11日
穴村から長束へ

前回からの続きです。
老杉神社から次の目的地の穴村の墨灸へとむかいました。農道を横切って葉山川を渡ることにしました。特別参加の方が、こういう道は地元のしか絶対に分からんへんからねーと。確かに知っている者にとっては何んでもない道なのだが、初めてこの辺りを歩く人にとっては何処に行き着くやら謎の世界かも知れません。
北大萱という町内に入って一応宝光寺の方に行くことにしました。藤で有名な三大神社の東の方角にあたります。このお堂には素晴らしい仏像があると聞くのですが、残念なことに秘仏とかでいつも扉は閉まったままです。ネットで調べてみてもここの仏像だけは画像が出てきませんので、まだ一度も開帳はしていないのかも知れないです。見せないといわれると見たくなると云うのが人情なのですが。

写真の奥にあるのが、今は診療所となっているが穴村のもんやさん。診療所の前にはだんごで有名な玉栄堂さんが、今も営業を続けておられるみたい。昭和の中頃まではこの通り界隈は大勢の人で大層賑わっていたみたい。旅館まであったと以前地元の方に聞いたことがあります。

この穴村にある鎮守の社は安羅神社。なんでも日本書紀によると新羅の国の皇子様が、陶工、医術、機織、製鉄などの技術者を携えて、瀬戸内海から淀川を跨いで近江の国に入ったと云う。この穴村で医術を残して竜王の鏡に赴いただとか。
皇子様は天日槍と言ってこの安羅神社と竜王にある鏡神社の祭神となっているそうです。

ところでここの神社の鳥居の立派なことこの上なしです。神額は満州国の総務長官であった駒井徳三氏による揮毫のもので、鳥居を裏に廻ると寄贈者はこの徳三氏と、兄弟なのかもう一人の駒井の名前が見えます。
そしてもう一方の柱の方を見てみると、西江?木戸石孫と読めます。びわ湖バレイの大津よりに八屋戸という集落があり、そこには以前石屋さんが何軒かありました。良質の花崗岩が産出したようですが、近年石が採れなくなったのか石屋さんも減ったらしい。でこの鳥居は西江州の木戸村の石孫さんでもって、製作されたものではないかと私は推測するのですが。だとしたらこのとてつもない大きな鳥居を、対岸の志賀町からどうやってここまで運んだのでしょうか。

安羅神社から印岐志呂神社へと道案内をしました。この印岐志呂は元県社なのですが拝殿と本殿の立派なこと。市の指定文化財止まりなのですが、これは度々の戦火で焼け落ちて、今の建物は明治初期の建築物なのだそうです。建物だけをみるのなら市内随一ではないかといつも思っています。
ここから長束町の春日神社に寄って、長束正家の蔵があったと私が勝手に想像している場所を案内して、近くの公園で昼をとることにしました。
一段落してお茶を飲み干すと同行者の一人が、昭和の草津写真集なるものをリュックから差し出しました。この本知っているわ。図書館でみたが滅茶苦茶高いでと言うと、9500円で買ったのだとか。そしてこんな港があったのですかと聞いた。写真見てみると太湖汽船と着物姿の多くの乗客が写っているではないか。お~これは志那の港ではないか。このあと行きましょう行きましょう。
Posted by 吉祥 at 08:43│Comments(4)
│近江歴史回廊
この記事へのコメント
京都生まれの伯父から、小さい頃に母に連れられ大津から船に乗って、志那の港から人力車で、もんやさんへ行ったと聞きました。往時の賑わいはすごかったんでしょうね。
Posted by sho惑星 at 2013年05月11日 10:00
sho惑星さんへ。
このあと志那港のこと書きますが、切符売り場だった所の所有者の方と知り合いなんです。以前からもんやさんことは色々と聞いていますが、その賑わいといったら他の比ではなかったようですよ。そのあたりの事も含めて書きますので暫く時間下さい。
このあと志那港のこと書きますが、切符売り場だった所の所有者の方と知り合いなんです。以前からもんやさんことは色々と聞いていますが、その賑わいといったら他の比ではなかったようですよ。そのあたりの事も含めて書きますので暫く時間下さい。
Posted by 吉祥
at 2013年05月11日 11:34

こんにちは!吉祥さん!!
安羅神社の祭神、天日槍が日本へ渡った理由が、2013年5月9日(木)、毎日新聞夕刊文化面(P6)“新羅から滋賀・草津へ情念の物語”の記事で明らかにされておりました。
記事の要旨は、
天日槍は新羅の王子だったが、ある日一頭の牛がいなくなり、足跡をたどると、ある村で、村人たちに食べられてしまっていた。その代償として、、村に祭っていた白い石をもらい、寝屋に置くと、美しい乙女となった。彼はその乙女を愛したが、彼の留守中に日本へ渡って(逃げて)行ってしまった。彼は、この乙女を追って、日本へ渡ったのである。~~と。
現実は、彼の許を去った乙女の追っかけが、新羅の王子来日の動機かも? 動機を正当化するために現実にはありえない、神話化が図られたのか?
と言うところでしょうか。
安羅神社の祭神、天日槍が日本へ渡った理由が、2013年5月9日(木)、毎日新聞夕刊文化面(P6)“新羅から滋賀・草津へ情念の物語”の記事で明らかにされておりました。
記事の要旨は、
天日槍は新羅の王子だったが、ある日一頭の牛がいなくなり、足跡をたどると、ある村で、村人たちに食べられてしまっていた。その代償として、、村に祭っていた白い石をもらい、寝屋に置くと、美しい乙女となった。彼はその乙女を愛したが、彼の留守中に日本へ渡って(逃げて)行ってしまった。彼は、この乙女を追って、日本へ渡ったのである。~~と。
現実は、彼の許を去った乙女の追っかけが、新羅の王子来日の動機かも? 動機を正当化するために現実にはありえない、神話化が図られたのか?
と言うところでしょうか。
Posted by どんたく at 2013年05月11日 16:39
どんたくさんへ。
新聞に天日槍のことが載っていましたか。我が家は朝日なので興味深くコメント読ませてもらいました。
天日槍が日本にやってきたのは事実なのかも知れませんね。あまりにも年代が古いので詳しいことはわかっていないそうですが。
新聞に天日槍のことが載っていましたか。我が家は朝日なので興味深くコメント読ませてもらいました。
天日槍が日本にやってきたのは事実なのかも知れませんね。あまりにも年代が古いので詳しいことはわかっていないそうですが。
Posted by 吉祥
at 2013年05月12日 06:51
