2011年05月23日

坂本の街歩きと坂本城跡

坂本の街歩きと坂本城跡

写真は松の馬道から壷笠山城を眺めたところです。壷笠山城に浅井
朝倉軍を山門が隠し持ったと言うことで、信長の焼き討ちが興った
と言われています。
しかしこの焼き討ちは、文献に数多く登場することになるのですが
、今のところ比叡山の何処を掘っても焼土は見つからないそうです。

坂本の街歩きと坂本城跡

近江歴史回廊大学の講義を受けに阪本へ行ってきました。午前の部
は木村至宏先生による講座で「光秀と阪本城」、そして午後の部は
大津歴史博物館吉水眞彦副館長の引率で、坂本の街並みと阪本
城跡を見てきました。

木村先生によると、過去に武将の人気度アンケートのようなものが
あって、明智光秀に投票されたのは極数票であったとか。
木村先生は信長より光秀のほうに憧れるとは言っておられましたが。
これは江戸時代の朱子学が及ぼした影響により、逆賊のイメージを
植えつけられたものであるとのことでした。

では実像はどうであったかと言うと、和歌、俳句、茶道に秀でていて
信長とは性格的にも合わなかったようです。
それでもって天正10年、本能寺の変が起こった2週間前に、信長か
ら家康の饗応役を命じられました。
なんで俺が家康の接待役をと、カチンときたのもうなづけます。
そのうえ信長から怒鳴られいたのでは、立つ瀬もないと言うものです
。さるうえはこの際「敵は本能寺にあり」。

午後から吉水先生の案内で、作り道から松の馬場を通って坂本城跡
まで歩きました。20年ほど前琵琶湖の異常渇水で坂本城跡の石垣
が現れ大騒ぎになりました。当時は歴史に関心がうすかったもので、
現地を訪れることはありませんでした。
山王祭で船渡御が行われる七本柳近くに、坂本城跡の石碑が建っ
ていますが城跡はあそこと少し離れていると聞いておりました。

坂本の街歩きと坂本城跡

国道161号線沿いにキーエンスという会社があります。坂本城の
本丸はこの会社がある附近ではないかと言うことでした。
まだ全て発掘調査が行われていないので、天守とかの位置は不明
であるが、おそらくこの会社附近が中心であったであろうとのことでし
た。

坂本の街歩きと坂本城跡

明智塚
本能寺の変のおり、坂本城を守っていたのは従兄弟の明智秀満。
秀満は安土城の接収に出かけたのだが、山崎での悲報を聞いて
坂本に引き返したのであるが、堀秀政軍に囲まれて万事休した。
そのおり金銀書画骨董の財宝は、掘秀政軍に引き渡したのである
が名刀郷義広だけは差し出すことが出来ずにここに埋めたとされて
います。

坂本の街歩きと坂本城跡

東南寺
天台座主はここで説法を行って認められない限り、座主にはなれな
いそうで戸津説法と言う。

坂本の街歩きと坂本城跡 坂本の街歩きと坂本城跡

坂本城跡の石碑
享保19年(1734年)発行の近江輿地志略に、坂本城跡と紹介され
ておりそれに基づいて大正4年に坂本村にて建立されたもの。


京阪坂本駅近くの坂本公民館から歩いたのであったが、解散時刻
が16時となっていました。吉水先生は坂本城跡には何も残ってい
なくて、石垣でも見えるとよいのですがとのことでした。
遠いところから見えておられる方もいるようなので、15時ごろの解散
としますとのことであったが、何のことは無く結局予定通り16時の
解散となってしまいました。
それは当初からのコースから外れて、あちこちと先生に案内しても
らったからです。
大津歴史博物館におられるようですが、非常に気さくな方で歩きな
がらみなさんの質問に丁寧に答えられていて好感が持てました。

先生は坂本城の遺跡発掘に、直接携わっておられたようで貴重な
体験を聞くことができました。
先生に頂いた資料にエッと思う地図がありました。それは江若鉄道
のの路線が書かれていたもので、解散場所となった下坂本支所
近くに駅が書かれています。
駅の名前は叡山駅です。うれしくなりました。


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この記事へのコメント
吉祥さん、今日は。近江歴史回廊大学での講義の内容を詳細に紹介いただき、懐かしく拝見しました。以前回廊大学での授業でこの講義を受けました。内容はこの記事と大半が同じでした。これからも種々の紹介お願いいたします。
Posted by kobatoan at 2011年05月24日 10:28
kobatoanさんこんにちは。
kobatoanさんの日記のことおぼえています。私もあの時は坂本城
の授業だけは受けたいと思っていました。
JRのふれあいハイキングとかで、坂本城跡をやってくれないかと
待ち望んでいましたが、ようやく話しを聞くことができました。

やはり専門の方に、こうやって現地にて説明を受けると解かり易く
て良いです。明智塚のことは知らなくて、いままで何回もあの前の
国道を通っているのですが気がつかなかったです。

旧志賀町を含めて大津市はハイキングの設定がないですね。
見所は満載だとおもうのですが、観光行政にあまり熱心ではない
のでしょうか。
来月江若鉄道廃線ウォークに参加したいと考えています。
Posted by 吉祥 at 2011年05月24日 14:16
坂本城のあといったのですが、あの場所とはちがうのですか。
あの場所の湖面に石があったときいていますけどね。
Posted by そば打ちおじさん at 2011年05月27日 00:19
そば打ちおじさんおはようございます。
光秀公の石像があるところは少し位置が違うようです。もう少し堅田よりが本丸があったと推定されるところだそうです。
渇水時に石垣が水面からあらわれたのも、石像のところではないようです。
Posted by 吉祥吉祥 at 2011年05月27日 07:23
こんばんは!
木村先生の「光秀と坂本城」の話は楽しくお聞き出来たと思います。
光秀の事は詳しくは知りませんので・・・でも写真の三上山を対岸に望む景色は、光秀も眺めていた風景ですね!
Posted by パルパル at 2011年05月27日 22:33
パルさんおようございます。
木村先生の光秀公の話しは興味をもって聞くことができました。光秀公はややもすると反逆ということで、歴史の片隅におかれるのですが違った角度から見ると文人派でインテリ武将だったようです。

三上山が写っている写真のところが、琵琶湖の渇水の時に坂本城の石垣が水面に出てきたところで、おそらくこの辺りが城の中心だったようです。
440年ほどの昔になりますか、光秀公もこの景色を見ていたことでしょう。
Posted by 吉祥 at 2011年05月28日 08:42
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